【短編小説】雨の日に傘を閉じて・後編
そんな俺も執行役員まで昇り詰めたものの "会社を乗っ取ること" は辞めた。周囲からは「もっと早く独立すると思っていた」「このまま本当に天辺取ると思っていた」と散々言われたが、そういう期待を裏切るのもまた清々しい。
そして退職の日に社長からもらったのが、例の傘。新品をプレゼントされたんじゃない。
『俺の傘だけど、お前にやるよ』そんな感じだった。
*
社長は俺のために、何人かの幹部で簡素な "送別会" を開催してくれた。
肩書の付いたお硬い連中であったため、一次会で退散しようと思っていた。ところが社長は俺だけを二次会に誘った。
まぁ俺自身入社当時から世話になった相手でもあるし、ついて行った。
その日は途中から雨が降り出した。
「気に入りの店がある」と社長はタクシーを呼んだ。その時彼の手に傘は無かったと記憶している。
そこは六本木にある会員制のバーで、紹介がないと入れない店だった。むろん、彼が今まで連れてきてくれたこともない。
セキュリティの重厚な扉の向こうは薄暗く、アンティーク家具とシガーが煙る空間だった。酔狂する外とは全くの別世界だった。
カウンターに着くと社長は「DILLON Très Vieuxをストレートで。こいつにもな。あとROMEO Y JULIETA(シガーの銘柄)…」とバーテンダーに告げる。
「野島はタバコも葉巻もやらなかったよな」
「そうですね。でも社長がシガーを嗜むなんて知りませんでした」
さすがのお前も、こういう店ではかしこまるんだな、と社長は笑った。
「かっこ悪いだろ、部下の前でそんなもん咥えていたら」
「今日はいいんですか」
「お前はもう俺の部下じゃない」
やがて褐色のラムが小さなグラスで提供される。グラスを合わせ一口含むと、複雑な甘さと芳醇な薫りが鼻腔を刺激した。
社長はボックスから葉巻を取ると、シガーカッターで頭を切り落とし、マッチの火でフットを丁寧に炙った。
そうして何度か頬を動かして吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。
「せっかくだからお前もやってみるか」
「そうですね。今なら恥ずかしげもなく教えてもらうことも出来るでしょうし」
社長がボックスを差し出し、俺は見様見真似でシガーを燻らせた。途中何度もダメ出しを受けながら。
社長はそんな俺を見てフン、と鼻で笑った。
「滑稽ですか」
「いや、お前は本当に、何やっても様になるんだなと思って。いつだって腹正しさを通り越すほどにな」
「そうですか」
「恰幅だってそういいとは言えないだろ。でもお前にはどういうわけか昔から凄みがあったよな」
「生意気だっただけなのでは」
「何だろな、俺も未だにお前の正体はよくわからん。化け物だからな、お前は」
そう言ってモワリと煙を吐き出す。俺も真似して口に含んだそれを放った。
「正直、お前みたいなツンツン尖ったやつはすぐに辞めると思っていた。けれどお前が来てから面白いように仕事が決まり、組織もどんどん大きくなった。こいつ本気で会社動かそうとしてるんだなと思ったら、改めてとんでもない奴が入ってきたなぁと恐ろしくなった」
俺は黙って社長の言葉を聞いた。そうこうするうちにあっという間に自分のグラスが空いてしまう。昔から酒のペースが早くて品がないなと思っていたから、今夜は時間をかけようと気をつけていたのに。
社長はそんなグラスを見て勝手に「Clément、ストレートでこいつにやってくれ」とバーテンダーに告げた。
ディロンよりもパンチの強いナッツやウッドのフレーバー。思わず唸った。煙と合わせると身体中に薫りが染み渡るようだった。
「まぁ、辞めてくれるお陰で俺の首は繋がったんだが、お前いなくなったら何も面白くなくなるな。つまらない会社になるぞ、この先は」
「社長がそんなこと言ってどうするんですか。面白くするかつまらなくするかはあなた次第でしょう」
いやいや、と彼は首を横に振った。
「お前は化け物だ。数年か数十年かに一度現れるかどうか…いや、もっと希少種だな。化け物なんてそうそう量産されても困るけど、お前ほど尖ったやつは今はいないよ」
「いいヤツも育ってますよ。俺が責任持って育てた彼らはどこへ出したって恥ずかしくないです」
「まぁ、そうだがな」
「そこまで言うなら、自分が社長になる時に『俺じゃなくて野島にやらせろ』と指名してくだされば良かったんです」
「ハハハ、その方が会社ももっと化けていたかもしれないな」
笑いはしたがその後彼は黙り込み、俺もカウンターの背後に荘厳と並ぶ酒の瓶を眺めた。この瓶ひとつひとつに物語がある。
そしてこのカウンターについた者たちの多くの物語も、またここにある。
灰皿の上でシガーが静かに燃え尽きていく。
*
外は雨が本降りとなっていた。
社長が会計を済ませている間、店の外で空を見上げていると、いつの間にか長傘を手にしていた社長がいきなり、それを俺に渡した。社長、こんなもの持っていたか?
「え、これ?」
「持っていけ。俺のだ」
「お下がりですか」
「何言ってるんだ。いい傘だぞこれ。柄なんかヒッコリーだぞ。なかなかないぞ」
そんなもんなのか、と俺はその柄を眺めた。『BRIGG LONDON 1836』と金属プレートに刻印がされている。
「餞別だ。男はいい傘持っておけよ、野島。社長になるんだから尚更だ」
***
「野島さん、この後どうですか? 軽く "懇親会" でも」
初回の打ち合わせが滞りなく終わり、深山仁がそう声を掛けてくれた。同席したこの会社の若きCEOの男も頷いている。
「あぁ、今夜はちょっと…」
「お忙しいですか」
「いや、娘がちょっと…」
「娘さん?」
「突発で不在になると、娘がうるさいんですよ。前もって言っておいてもうるさいんですけどね」
「えぇ、そうなんですか?」
俺は予定外の飲み会で帰宅が遅くなった時の、家でのちょっとしたエピソードを話した。
「うちは妻より娘の方が怖いんです」
「いやぁ、かわいいじゃないですか。そんな風に娘に慕われるお父さん、本当は嬉しくてたまらないじゃないですか? うちも娘がまだ小さいんですが、年頃になったら離れていっちゃいますもんね、娘なんて」
若きCEOはそう言った。
「そうですね。今のうちかもしれませんね」
それはそれで、俺も寂しくなるのかな、とふと思った。
エレベーターへ向かおうとした時、受付の女性が「傘!」と声を挙げた。
「あぁ…忘れるところでした」
「大事な傘ですからね。雨ももう上がりそうですから、余計に忘れちゃうといけませんから」
彼女はそう言って傘を手渡してくれた。
「え、野島さんの傘、高級品じゃないですか」
見送りに出た深山仁も同じことを言った。
「さすがですね。俺はこれをもらった時もよくわかっていなくて、ありがたみが薄いかもしれません」
「いやいや、野島さんの持ち物ってさりげないんですよね。そういうの選ぶのか、って僕も舌を巻くというか、手本になりますよ」
「それはそれは。サラリーマン時代の上司のお陰だな」
「へぇ、素敵な上司がいらっしゃったんですね。羨ましいな」
俺は傘の柄を見てポツリと呟いた。
「女からでなければ、貢物はいいのかよ…」
「えっ、何か言いました?」
「いえ、独り言です。それでは今後もよろしくお願いします。あ、奥方にも」
「伝えておきます。また3人で飲みにでも行きましょう」
「えぇ」と答え、オフィスを後にした。
確かに雨は小降りになっていた。空もだいぶ明るくなっている。
俺は傘は開かず、ステッキ代わりに軽く振りながらメトロの駅へ向かった。
この傘、実は店からくすねたものじゃないか、と後から思った。あの男ならやりかねないとも思った。だから後日、店に連絡して事の顛末を話したのだが。
『あの傘、確かにしばらく前に◯◯様(社長の名前)が置いていかれたものです。"置き傘だ。雨が降ったら差して帰るから、預かっておいてくれ" としばらくそのままで。ところが雨が降ってもお持ち帰りにならないんです。"今日は別の傘を持ってきているんだ" とおっしゃって。それがあの晩◯◯様が会計の際に "あの傘、出してくれ" とおっしゃいまして、それで』
嘘か誠か。
あの日雨が途中から降ってこなければ、あの傘は俺の手元に来なかったということか。
それとも用意周到に、社長が仕組んだのか。天にまで?
こみ上げる可笑しさに耐えきれず、隣を歩いていた女性が驚いた顔で俺を振り返り見た。
俺はステッキ代わりの傘を軽く上げ、挨拶してやった。
END
※このお話は島地勝彦さんによる、今東光さんとの傘のエピソードが大好きで、梅雨時期にふと思いついて参考にさせて頂きながら書きました。『乗り移り人生相談』には私も若くてやんちゃだった頃、お世話になりました。島地さんと出会ってからシングルモルト、シガーとも出会いました。若気の至りではありますが。今はシガーはやってません。カッコつけすぎでした。