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【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #8

前回

紗都香の前話



~紗都香


突拍子もない夫の言葉に、咄嗟に理解が追いつかない。

「…なんのこと?」
「野島遼太郎のことだよ」

心臓が止まるかと思ったとは、こういう時の事を言うのだ。
なぜ、彼の名前を…?

「え…だ、誰のこと…」
「とぼけないでくれよ。君の会社に出入りしている営業マンだろう?」
「え…あっ…あの人…。どうしてそれを…」

パニックになると判断力は皆無になる。あっさりと彼の存在を認めてしまった。夫は少々苦い顔になった。

「随分と営業熱心・・・・なようだから。社内の評判も良いんだろうね」

全身の血の気が引き、自ずと震えが込み上げる。上ずって声すらうまく出ない。

「そんな顔するな。知らせてくれた人がいたんだよ。らしくもなく君が随分熱を上げているらしい若い男性がいる、と」
「だ…誰が…」
「僕の知人がね。もちろん詳しくは言えないけども」

一瞬、バーテンダーの顔が浮かんだが、あの店は夫と訪れたことはない。夫の話はしたことはあるけれど、繋がっているとは思えない。
では、誰が。

「立派な家に生まれて、学生時代は弓道部で全国大会に出たこともある腕前。現役合格のK大は学部首席卒。そして入社3年目でトップクラスの営業成績を持ち将来有望。おまけにイケメンときたら、さすがの紗都香もノックアウトされちゃった、ってわけなのかな?」
「そ…そんなの…知らないわ…」

実際、夫が並べたそれらには私の知らない情報も含まれていた。
夫はそれまで浮かべていた笑顔を引っ込め、深い溜め息をついた。

「君はこれまでも色々と遊んでいるのは気づいていたよ。彼も最初は遊びのつもりだったかもしれない。僕もまぁ、軽い付き合いなら目を瞑ろうと思っていた。僕らはもういい大人なんだから、煩いこといちいち言わないつもりだった。けれどあの男はこの家に連れ込んでいるみたいじゃないか。さすがにそれはちょっと」
「…」
「肩入れし過ぎると、とんでもない目に合うぞ」
「ど、どういう…」

夫は私の顔を一瞥すると、黙ってリビングを出ていった。

震えが止まらない。なのに汗が滲む。いつから気づいていたのか。あんなに詳しく、むしろ私以上に遼太郎くんのプロフィールを知っていたなんて。

調べられていたんだ。いつから、どこまで…。この家にカメラか、盗聴器でも仕込まれている?

“離婚” “訴訟” という言葉が頭をよぎる。
私は離婚を望むのか?
仮にそうなったとしても私は一人でも生きて行けるだろう。けれど、慰謝料を求められたら足元を見られる。"安泰" の文字が歪んでいく。ましてや遼太郎くんと生きていくことなどあり得ない。あの男はそんなことは絶対にしないだろう。

結局私の人生は、何を残して行くのか。

どうしたら良い。話したい、とにかく誰かに聞いて欲しい。
けれど今、遼太郎くんに連絡を取る事は出来ない。
急激に孤独感が込み上げる。

私は…独りなのだと。



翌朝、夫は何事も無かったかのように清々しく、普段通りに接してきた。私はほぼ一睡も出来なかったというのに。寝室は元々別室だから、互いの就寝時の様子はわからない。

釘を刺しておいて反応を見ようというのか。しかし私も触れられず、平静を装った。

迂闊に遼太郎くんに連絡を取ることも出来ず、翌週の定例会議まで悶々と過ごさなければならない。まさに真綿で首を絞めるとはこのことか、と思う。

こんな時、仕事が忙しいのはありがたかった。仕事に集中出来る一方で、業務終了後は遼太郎くんの事がこれまで以上によぎる。

会ってはいけない。会うことが怖い。
それでも逢いたくてたまらない。
何なの、この狂気に満ちた感情は。

その日1日はあっという間に過ぎた。家に帰るのが恐ろしいが、帰らないわけにも行かない。
金曜の夜。どこへも寄らず真っ直ぐに帰ったが、夫はまだ戻っていなかった。

21時。メッセージを受ける。

今日は付き合いでちょっと遅くなるよ

夫からだ。身体がヒヤリとした直後にカッと熱くなる。私を牽制しておいて、自分は週末の夜を楽しむ…? そんな人だった?

もちろん、私がそんなことを言えた口ではないけれど。

夫はほぼ全てを把握している。

私は社用スマホを手にし遼太郎くんにメッセージを送ろうとしたが、指先が躊躇う。このスマホも、足がついたかも知れない、と。

何も信じられなくなる。
ただ彼は、野島遼太郎という男を除いては。
彼は何を考えているかわからない一方で、決して嘘をつく、騙すようなことはしないだろうという確信があった。
自らも傷付けてしまうほどに、ストレートな男だから。



「紗都香、たまには買い物に付き合うよ」

週末の朝、のんびりとした声で夫が言う。あの一件がなかったら、いつもと何一つ変わらない。
そこはかとない怒りを抑え込んでいる気がして、恐ろしい。
既に夏の到来を告げるかのような梅雨明け間近の太陽が、返って憂鬱な気持ちを煽っている。


車庫で夫が拳を握って構えた。じゃんけんだ。勝った方が行きの運転、負けた方は帰りだ。今日は私が勝った。夫は「ビールが飲めないな」と言いながらも愉快そうだ。

「飲みたいんだったら、電車で出掛けたっていいのよ」

夫は少し思案したが「いや、買ってきて家で飲むとしよう」と言った。むしろ外で飲んでくれた方が気が紛れる。家で2人きりで、しかもアルコールが入ったら、修羅場を見るのではないかとヒヤヒヤした。
そんな私の様子を楽しんでいるのか、夫の普段以上に陽気な笑顔が引っかかる。

車を走らせ、少し離れた街にあるモールへ出た。行きの運転は私、帰りは夫だ。
ハンドルを握る腕が固く、私の口数は必然的に減る。夫は相変わらず他愛もない話を続けていた。気を遣っているのか、真意が読めず不気味だった。曖昧ない相槌を打ち、墓穴を掘らないように下手な話題は避けた。

駐車場に車を入れモールの入口へ向かう時、夫が手を繋いできた。反射的に手を引っ込めてしまう。夫は瞬時眉をひそめた後、苦笑いを浮かべた。

「やだ…びっくりするじゃない」
「たまにはいいだろう。デート気分っていうのも。それとも…」

それとも、の言葉で急激に温度が下がった気がした。まずい。冷や汗が流れる。

"俺の手はもう嫌だっていうのかな?"

そう言われるような気がしたからだ。しかし。

「もう若くないから恥ずかしいか?」

そう言って笑い、改めて私の手を取った。


週末のモールは子供連れの家族、カップル、学生で雑多に賑わっていた。特にこの周辺は近年急激にマンションが立ち並び、にわかセレブが増えている。何となく居心地が悪い。夫だってこんなところ、わざわざ車で来るほどの場所でもないのに、一体どうしたというのか。
全てが訝しい。

夫は手を繋いだままのんびりと歩く。時折服を見たり、キッチン用品を見たり。
旅行用品を扱う店の前を通りかかった時

「そういや夏の旅行、行き先決めたか?」

と訊いてきた。

「えっ…あ…まだ…」
「どうしようかねぇ」

行くつもりなの。あんな疑惑を抱えたまま?

「ねぇ」

立ち止まる私を振り返った夫に、笑顔はなかった。

「話は家に帰ってからにしよう」
「でも」
「せっかく出てきたんだ。旅の買い物でもしよう」

そう言って店の奥に進んでいった。



夜、家での晩酌に付き合った。飲む気分では無かったが、恐らく "彼" の話になるはずだから、夫に合わせることにした。

食事もお酒も進んだ頃、私は切り出した。

「…野島さんのこと、いつから、どこまで調べたの…」
「つい最近だよ。そもそも君も知り合って半年かそこらだろう。家に連れ込んでいるのが気に食わなかっただけなんだが、興味が湧いてね、どんな男なんだろうってね。それで、ちょっと」
「ちょっと、何を…」
「紗都香、多少のお遊びは目を瞑るつもりだったが…。もう会わないと約束してくれれば大目に見るよ」

ちょっと・・・・、何があったというの?
けれどそれ以上追求出来ないような、今までに感じたことのない圧力を感じた。

「どうするんだ?」
「…もちろん…でも仕事で…」
「仕事はまぁ、仕方がない」

従うしかない。寛大な夫に感謝すべきか。
仕事では会えるのだから。そう言い聞かせた。


***


週が明けた月曜の夜。
私はひとり、バーに来ていた。いつも待ち合わせで使っている、あのバー。

「いらっしゃいませ」

バーテンダーが静かに声を掛ける。私は正面に座りギムレットを頼んだ。

「今日は一人なの」

白い液体が揺れるグラスが目の前に置かれた時にそう告げると、バーテンダーは軽く頷いた。そして小さな紙片を私の前にスッと差し出した。

「…?」

それは四つ折りにされており、開くとつらつらと手書きで書かれた文字が並んでいる。綺麗とは言えないが、雑な訳でも無い。初めて見たが気の強さが現れたような独特な筆跡に、すぐに誰が書いたのかわかる。署名に目を走らせると案の定、野島遼太郎とあった。

バーテンダーを見やる。彼は静かに言った。

「先週末お越しになり、近い内に九園様がいらっしゃるだろうから渡して欲しい、とのことでした」

茫然とし、たった二言だけ書かれたメモを何度も反芻した。





#9へつづく


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