【連載小説】あなたに出逢いたかった #37
渋い顔をしていた遼太郎は、夏希が説得を始めた事に少々驚いているようだ。
「駅の商店街にある喫茶店で会うって言ってるから。それだったらそんなに遠くまで行かないし、人目もあるからまだ大丈夫でしょ? やり取りも見せてもらってる。そんなに頻繁に会える距離でもないし、向こうもお正月でも会えるなら構わないって言ってくれてるみたいだし…せっかくの機会だから。ね、梨沙も遠くに行かずに、そこのお店で会うようにして」
「うん」
「でも…」
「梨沙はベルリンへの留学だってそれほど大きな問題もなくやってこれたんだし…」
遼太郎は夏希と梨沙の顔を交互に見た。
夏希は知らないだけだ。梨沙がベルリンで起こした2つの大きな事件についてを。
梨沙はもちろん、遼太郎も夏希には黙っていた。トラウマを抱える彼女の耳に入れることは出来なかった。せっかくそのトラウマを克服しようと梨沙の主体性に任せようとしてくれているのに。
遼太郎はやがてため息をつくと「1時間だけだぞ」と静かに言った。
「1時間で戻れ。50分経ったら俺から電話するから必ず出ろ。もちろんその前にも気になることがあったらすぐ連絡しろ。例えば相手が女と偽って男だった場合とか。ワンコールさえすればいい。すっ飛んで行くから。いいな? 夏希と蓮は先に向かっていてくれ。俺はここで梨沙を待つ」
表情を変えた夏希に遼太郎は「蓮がいればナビゲーションは問題ないだろ。俺は梨沙と一緒に後から向かうから」と言った。蓮は「任せて!」と胸を叩く。
梨沙も何かを言おうとしたが、遼太郎は顔を近づけ続けた。
「いいか、俺はお前の保護者だ。それを肝に銘じて軽んじた行動はするなよ」
そして更に小声で梨沙に囁く。
「お前には前科があるからな」
そう言って遼太郎は梨沙の背を押した。
*
駅から西に向かって伸びる商店街の一角にあるドーナツ屋、ここは夏にも訪れたあの店だ。
店に入る前に振り返ると、遼太郎は一人、長い弓を手に駅の入口でこちらを見ていた。他の家族は既にホームに上ったらしい。唇を噛み締め入店する。
途端にコーヒーの香りに包まれるが、その雰囲気に浸る余裕はない。注文もせずただレジの後ろのメニューを凝視していると、メッセージを着信した。
稜央からだった。
*
昨夜ー。
年も明けてしばらく経った深夜だった。
稜央からの返信があった。夏希は既に隣で熟睡している。
『大丈夫です』とすぐに返信した。おおよその時間と、駅で待ち合わせることを決めた。家族はそこから電車移動するから、先に行ってて貰えばいいと思った。
会える、稜央さんに会える。
興奮しすっかり目を覚ましてしまった梨沙は、しばらく経った時に障子の向こうがぼんやりと赤く光っていることに気づいた。
上半身を起こし薄く障子戸を開いてみると、誰かが焚き火をしている。下半分がすりガラスになっているのでよく見えないが、背格好からして遼太郎であることは確かだった。
こんな時間に…どうして火なんか焚いているのだろう。
けれど話しかけるのは何となく憚られ、戸を閉めると布団に戻った。隣から規則正しい夏希の寝息が聞こえる。
そのうち、障子の向こうの外は闇に包まれた。
梨沙にも、やがて睡魔が訪れた。
*
梨沙は駅前商店街のドーナツ屋にいることを告げると
駅はまずい。しかし店内から駅の方を伺うと、遼太郎の姿は見えない。
梨沙は店を飛び出す。
返信の代わりに1台の軽自動車が横に付けると、助手席のドアが開き「乗って!」と叫ばれた。
急いで乗り込むとすぐに稜央が「シートベルト」と言いながらアクセルを踏んだ。駅の方へ走り出す。
「あぁ、駅の前には行かないで!」
思わず梨沙が叫ぶと稜央は驚いて「えっ、なんで?」と訊く。
「パパが…」
その言葉に急ブレーキがかかる。
「えっ!? パパって?」
「あ、父がその…駅にいるんです。1時間後に私が戻るのを待っているんです」
後ろからクラクションを鳴らされる。稜央は慌ててアクセルを踏み、タイヤを軋ませながら右折した。駅から遠ざかる細い道で、いかにもこの先は何もないただの住宅地であることを伺わせる。
焦る稜央の横顔を見て梨沙は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい、段取りが悪くて…」
「っていうか、何でお父さんが待ってるの? 昨日と話が違うじゃない」
稜央の心臓もエンジン並みに爆速で唸りを上げる。
「本当についさっき、父が言いだしたんです…。SNSで知り合った人と会うことをすごく警戒しているみたいで…。あ、親には陽菜さんと会う事にしています」
稜央の顔は青ざめていた。それを見て梨沙は「男の人って、そんなに父の存在って怖いものなんですか?」と訊いた。
「えっ? な、なんで…」
「この前も知り合いが…あ、あの横浜のイベントで私と一緒にいた人ですけど…私がパパと電話で話していたら、なんかすごくおっかながっていて…」
一般論としてはそうかもしれない。
でも俺は違う。俺は全っ然違う理由だから。
稜央は心の中で叫んだ。
「…陽菜さんから、離婚されて今お父さんはいないって聞いています。そのせいもありますか?」
「えっ…」
"お父さん" の話は避けなければならない。
「…うん、父親のことは知らないんだ。いないって言われて育ってきたから」
あれ、と梨沙は思う。
しかしアクセルが更に踏み込まれ、シートに身体が押さえつけられる。車はただひたすら真っ直ぐ進む。
「…どこへ行くんですか? 出来ればあまり離れたくないです」
「そうだけど…どうしたら…駅の方に行けないとなると、別の駐車場に停めないと…」
梨沙自身もこんなはずではなかった。もう少し穏やかな気持ちで会えるはずだった。これまでの彼とのやりとりは、そうなることを予感できるものだった。
けれどあまりにも短いタイムリミット、駅で待つ父。移動の車の中…。焦って約束を取り付けたことを少し後悔したが、そうでもなければなかなか会う機会もない。どの選択が正しかったのか、わからない。
「…本当にごめんなさい。もっと前もって準備しておけば良かった…」
稜央も後悔していた。
家族で来ていることは聞いていた。元日早々会いましょうというのも実際は少々不謹慎だ(何も予定がなかったからいいのだが…)。
断る正当な理由はあった。断ったところで別に一巻の終わりという訳でもない。
全く、俺は梨沙に何をしようとしているんだ。兄貴ヅラしたいんだろうが、彼女はそれを求めているわけじゃないし、兄貴になれるわけでもない。
しかもすぐそこに遼太郎がいる。
*
何もない、本当に何もない所で車は停まった。しばらく重い沈黙が垂れ込めたが、取り繕うように稜央が口を開いた。
「…元気にしてた?」
「はい…稜央さんも?」
「うん…家族でこっちにはよく帰って来てるの?」
「いえ、子供の時以来です。今回は私が父に弓を引いている所を見せて欲しいってお願いしたから」
「弓?」
「父が学生時代、弓道部で。…高校時代のアルバムで引いている姿を見て、一度本当に引いている所を見たいって話したら、実家に行けば弓具が一式残っているからって、それで家族で来ました」
高校の弓道部と聞いて稜央は動揺した。思わず手が震え、ハンドルを力強く握って誤魔化す。
自分も見た、あのアルバムだ。
梨沙はきっと桜子の姿も確認しているはずだ。意識はしていないかもしれないが。
「へ、へぇ、そうだったんだ」
「…」
「それで…梨沙ちゃんも弓、やるの?」
「まだちょっと…わかりません。やるかもしれないし、やらないかもしれない」
梨沙はそこで黙り込んだ。あと15分で遼太郎から連絡が入ることになっている。稜央も黙った。次の言葉をどう繋ごうか迷っているようだった。
「稜央さん」
「は…はい」
思わず緊張し声が上ずる。
「稜央さんのこと…本気で好きになっても、いいですか」
#38へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?