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【連載】運命の扉 宿命の旋律 #56

Massenet - 瞑想曲 -


遼太郎が病院に運ばれた翌日も、夏希は朝から病院に駆けつけ、2人の子供たちと一緒にずっと遼太郎のそばに寄り添った。

午前中にようやく彼は目を醒まし、一般病棟へ移った。3人部屋の一番奥、窓際のベッド。
まだまだ夏の余韻を残し、窓の向こうはぎらついた日差しが照りつけている。

遼太郎が集中治療室で目を覚ました時、酸素マスクの下で微かに妻の名前を呼んだ。涙をひとしずく落として。
しかし目を醒ましたものの、その後は長い恐怖から抜け出したかのように茫然としたままだ。
夏希は優しく声をかけるが、彼は時折苦しげに目を細め、虚空を見つめるだけだった。

夏希はベッドの縁に肘を付き、祈るように手を重ねた。
「何があってもあなたを愛してる…遼太郎さん…」
唇に愛の言葉を載せて。

足元では娘の梨沙が、その様子を不思議そうに見上げていた。蓮は夏希の背中でしきりに声を出している。


しばらくして急に病室の外が慌ただしくなったかと思うと、隆次が入ってきた。

「兄ちゃん!」

顔面蒼白の隆次がベッドに近寄ってきたので、夏希は蓮をおぶったまま梨沙の手を引いて席を外した。
背後で隆次が大きな声で何かを喚き、中にいた看護師に制止されているのを感じながら、子供たちの食事のためにも部屋から離れた。

日差しが益々高くなり、冷房の効いた院内と外のギャップを思うと夏希は少し憂鬱になった。
休憩スペースの一角で子供たちに食事を与えた。
夏希自身は、昨日から何も口にすることが出来ないでいる。

毎週木曜日に子供たちの面倒を見に来てくれる美羽は昨日、気丈に振る舞った。夏希とは10近く歳が離れているにも関わらず、取り乱す夏希をなだめ、誰よりもしっかりしていた。

母乳の出にも影響するから食事をきちんと摂ってください、とも美羽は言った。出産経験もない若者なのに。あんな子が少し前にスーパーで大人しくレジ打ちをやっていたなんて信じられない。
夏希は苦い思い出し笑いを浮かべる。

いつもはおっとりとした優吾も、さすがに張り詰めた様子だった。
『明日は次長の分もさばいてこないと』
と、今日は早い時間から会社に向かっているはずである。

「お義姉さん、昨日息子とか名乗ってる頭おかしいガキが兄ちゃんの病室の前にいたんだけど、何なんだよアイツ」

病室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから隆次がやって来て言った。夏希の脳裏にあの青年がよぎる。

「息子…」
「逃げ出したから追いかけたんだけど、巻かれた」
「それ…、いつの話ですか?」
昨夜ゆうべだよ」
「昨夜…」

夏希が「もう現れないで」と言った後だった。彼は何をしに来たのだろうかと訝しがる。

彼は自分のことを「息子」と名乗った…。
やはりそうだったのか、と呆然とした。
しかし不思議と裏切られたような気持ちにはならない。彼の年齢を考えれば、遼太郎が学生時代の話だろう。

だったら…。

だったら、それは私の人生が遼太郎さんと交わる前の話であって、私は肯定も否定も出来ない、と夏希は思った。
でもおそらく彼はそのことでこんな状態になるまで苦悩したのだろう。
言ってくれれば良かったのに。

でもそんなこと、簡単に言えないこともわかる。

「その子は…遼太郎さんが倒れた時に付き添ってきた子なんです」
「付き添ってきた? どうして奴が?」

夏希は首を横に振った。
「わかりません、でも」
「でも、何?」

隆次は苛立った様子で問い詰める。
夏希が黙っていると、隆次は淡々と言い放った。

「アイツのせいで兄ちゃんがあんなことになったのなら、俺、アイツぶっ殺すから」
「だめです! それに違います」
「知ってんのかよ! 兄ちゃんの怪我、見ただろう? 俺、兄ちゃんに手を出すやつ、マジで許せない。いま俺、マジで腸が煮えくり返ってる。このままじゃ気が済まない」
「手を出したわけじゃないです。隆次さん、落ち着いて」
「落ち着いてられっかよ! お義姉さんだって昨日は酷かっただろ? 兄ちゃんが死ぬなら私も死ぬって喚いてただろ?」

そんなことを私は喚いていたのか、と、まるで他人事のようにぼんやりと思った。

遼太郎さんが死ぬなら、私も死ぬ。
そうだ。それはそうだ。そう思っていた。
でも今、彼は死んでなんかいない。

そして昨日美羽に言われた言葉…私にはもう娘や息子たちの人生に責任がある。
この子たちは…遼太郎さんと私、の子供たちなのだ。

夏希は唇を噛みしめる。

「今は…波風立てずにそっとしておいて欲しいです。遼太郎さんに強い刺激を与えたくないから…」

そう言うと隆次は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、荒く鼻息を一つ吐くと、夏希の脇をすり抜けて去って行った。

* * *

会社では優吾が有紗の横に椅子を並べ、ヒソヒソと話をしている。
上司が緊急入院のためしばらく出社が出来ない状況となったが、それ以上のフォローが有紗には必要だったからだ。

優吾が入院した旨を告げると、有紗はショックで顔を青ざめさせながらも、あれが原因だ、とすぐに察知した。

遼太郎が襲われたところに出くわしたのは、ほんの数日前なのだ。

あまりも強い衝撃の出来事だった。ほんの数時間足らずの間の、彼に付き添ったあの夜を思い返す。

大事おおごとにしたくないから警察に届けるなとすごい剣幕で言ったこと。
肩から流血しているのに、寄り添って有紗の服が汚れるのを気にしたこと。
病院内で遼太郎の大切にしている腕時計を綺麗にしたこと。
タクシーの中で彼がもたれかかってきたこと。
彼が降りる間際に、至近距離で感じた吐息と熱に浮かされたような瞳。

『このことは誰にも言うな。優吾にも。信頼してるからな』

遼太郎の言葉が頭をよぎる。職場なのに涙が出そうだった。
優吾は彼がなぜあのような状態になって入院することになったのか、全く知らないのだ。

と、有紗は思っていた。

優吾は優吾で、遼太郎から聞いた『告白』が原因だと思っていた。
病院にいた青年は、遼太郎の告白内の人物だろうと直感し、大いに戸惑った。
遼太郎は『夏希の耳にだけは絶対に入れたくない。彼女を失いたくないから』と優吾に告げた、その根本たるものが目の前にいる。しかも自分の横には夏希がいるのだ。

だから夏希がサッと青年の手を引いて何か言葉を交わしていたのを見た時は、生きた心地がしなかった。
しかし夏希は青年を追いやった。何を話したのかはおろか、あの青年のことは一言も触れることがなかった。

“あの青年と次長が一緒にいたとしたら、何を話したのだろう。次長があんなになってしまうほど”

秘密と遼太郎の思いがのしかかって優吾の腹はキリキリと痛む。

けれど優吾はもちろん約束を守る。遼太郎から聞いた告白は墓場へ持っていくこととなる。

有紗もまた、誰よりも愛する人からの頼みのため、喉まででかかっている言葉を何度も飲み込む。萌花には告げてしまったが、あれは例外中の例外だ。彼女は共犯者なのだから。

本当は優吾には共有したい。あっけらかんとした優吾と共有出来たら、鉛が銅くらいには変わるのではないかと思った。

「あ、奥さんからメッセージ来てる。…次長、意識が戻って一般病棟に移ったそうです」

優吾は小声で有紗に告げた。有紗はハンカチを取り出し、目頭にあてる。

「良かった…」

人は張り詰めた緊張が強ければ強いほど、解き放たれた時の感情の放出も大きくなる。有紗は席を立った。

「ごめんなさい、ちょっと席を外します」

優吾は心配そうに有紗の背中を見送った。

* * *

「夏希」

遼太郎は目を閉じたまま、妻の名を呼んだ。細い声だった。
入院から数日が経過し、間もなく退院できる見込みだった。

「なに?」
「ちゃんと食べてる?」

意外な言葉が飛び出し、夏希は戸惑った。

「どうして?」
「細くなったなと思って」

目を閉じたまま言う。

「あなたほどじゃないよ」

夏希は精一杯笑顔を作って言った。
すると遼太郎はゆっくりと目を開き、ゆっくりとその目線を夏希に向けた。

「食べられないの?」

もう一度、訊いた。

「あなたが退院したら、一緒にたくさん、美味しいもの食べる。あなたのことも嫌っていうほど太らせてやるんだから」

遼太郎の手を取り頬にあてて、夏希は涙ぐんで言った。

遼太郎は微かに笑みを浮かべた。



#57へつづく

※ヘッダー画像はゆゆさん(Twitter:@hrmy801)の許可をいただき使用しています。

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