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【連載小説】鳩のすむ家 #11 〜"Guilty"シリーズ

~由珠子


布団に入っても、久しぶりに寝付けなかった。
頭の中で何度も何度も反芻してしまう。

体温を思い出す。
匂いを思い出す。
頭の上で響いた、ちょっとくぐもった声を思い出す。

寝返りを打てば、また1から反芻する。


**


野島さんが背後から近づいてきて、無言で私を抱き締めた。
何が起こったのか把握出来た途端、急激に全身がヒートアップした。そう、心臓爆発という言葉がぴったり合う。

顔に当たるセーターの感触。
匂い。
体温。

絶対に、鼓動が胸郭をあり得ないくらい突き上げている。だからきっと気づかれてしまう。恥ずかしい。

私は恐る恐る、野島さんのコートを摑んだ。
ずっと黙ったまま、どうしたらいいのだろうと思っていた時。
頭上から声が落ちてきた。

「福永はちゃんと出来るようになった。矢も届くようになって的にも中るようになった。家庭はどうやら崩壊気味のようだが、壊さなければ新しいものなんて築けないからな。だから全て順調だ。今まで堪えてきた分、今後はなりふり構わず発散していけよ」
「…私の力ではありません。さっきも言いましたけれど…野島さんを始めクラスメイトや、東先生や石澤さんのお陰です。皆さんがいなかったら、私、何も変わっていなかったと思います」

身体が離れ、あまりにもの緊張で顔が上げられなかったが、声が再び頭上に落ちた。

「でも、中心にいたのはお前だ」

ほんの少し顔を上げた。目深に被ったキャップのお陰で、野島さんの顔は見ずに済んだ。それでも首から顎の辺りを視界に入れるのが精一杯だった。

「変わろうとするお前のそばに味方が出来たのも、力量のうちだ。それでもモノに出来ない奴はいる」
「東先生が、野島さんのことを救世主だと仰っていました」

野島さんはフン、と自嘲の鼻息を漏らす。

「俺はただ壊していくだけ。半年前も付き合ってた女の家庭をぶち壊したし、どちらかといえば疫病神だ」
「新しいものを築くために壊す。野島さんはその通りの真っ直ぐな方です。正義のための悪もいるのだと知りました」

1年前、桜の下で佇んでいた悪魔。

そこで私はようやく、顔を上げた。
私を見下ろす野島さんは、キャップのつばの影越しでも、あの悪魔の面影なんてどこにもなかった。

「私はもう区外に住んでいます。だから来年度からはスポーツセンターに通う資格がありません。大学で弓を続けたら、またどこかで教えてもらえますか? 何かあった時、石澤さんや東先生の他に、野島さんに連絡してはだめですか? あ、連絡先、存じ上げないですが…」
「俺の存在は今後は無いものと思ってくれ。新しい環境に行ったら新しい仲間を築いていってくれよ。大学に進んでも、いい友達と、出来ればいい恋人に恵まれるよう願っておく」
「…ならばどうして私を抱き締めたのですか?」

野島さんは一つ息を吐いて言った。

「誕生日のお祝い」
「…随分過激なお祝い方法なのですね」
「いや…本当は…なんだ…。とりあえず年が明けてからの福永は、まさに憑き物が取れたかのように活き活き見えてさ。よく耐えてきたなって…。俺も家を出た時清々したけど、憑き物は憑いたままな気がして。羨ましいと言うか…。嫌な思いさせたらごめん。女子高生に手は出さないと言っておきながら」
「嫌ではありません。でも、未来は望めないのですよね」
「うん」
「私が大学生になっても、大人になっても、望めないのですね」
「うん。俺のことは本当にやめておいた方がいい」
「どうしてそんなに自分のことを悪く言うのですか」

野島さんは、虚空を見上げた。

「俺の身近にいる奴は、誰も幸せにならない」
「どういうことですか。さっきも "死ぬ時はひとりだし" なんて、悲しいこと言いましたね」
「俺が壊すから。疫病神だから。俺はそれが耐えられない」
「自分で…ですか」
「そうだ」
「…野島さんなら変われますよ」
「無理だね」
「どうして…私には "無理だなんて決めつけるな" っておっしゃいましたよね。矛盾してます」
「…」

私は息を呑んだ。
野島さんが、苦しそうに顔を歪めたからだ。

「そうだよ。矛盾だらけだ。だから尚更、俺なんかといたら腹立つことばかりだと思う」
「だったら抱き締めなんてせず、悪魔のまま冷たくされ続けた方が良かったです」
「悪魔?」
「あ、いえ…」

言おうかどうか迷ったが、野島さんは自分の話をしてくれた。だから私も伝えることにした。

「…1年前、初めて野島さんを見かけたのが、スポーツセンターに行く途中の桜並木の下でした。野島さん、すごく忌々しげに桜を見上げていて、その時夜でしたし、野島さんも黒っぽいスーツを着ていらしたので、なんだか…悪魔みたいな印象を持って…」

そう言うと一瞬表情が凍りつき、やがて「なるほど、言い得て妙ってやつだな」と自嘲気味に笑った。

「でもそれは…着ぐるみみたいなものなのだと思いました。内側は違います。散る桜を見て無常な気持ちになっていたのだとわかりました。野島さんが例え何かを壊しても、野島さん自身がおっしゃったようにそこには新しい何かが生まれるはずです。だから野島さんは悪魔でも疫病神でもありません」

けれど、野島さんはそれ以上は何も言わず、アパートの方に向かって歩き出した。


「ここです」

アパートの前で立ち止まる。4ヶ月前も、こんな風に2人で鳩の家の前に佇んだ。

「こういう俺のこと、怒ってくれる友人もいるんだ」

突然、野島さんがポツリと言った。

「えっ?」
「自分の身体を縛り付けている鎖を壊せ、ってさ。俺がお前に言ったみたいに。俺は偉そうなこと言っておいて、自分のことは棚に上げているんだよ」

そう言った野島さんの横顔は、淋しげだった。鎖を壊すことがまだ出来ていないのだと思った。
でも絶対に、野島さんなら出来る。
私に出来て野島さんに出来ないこと、あるはずがない。

「母親と2人暮らしとはいえ、何かあったらすぐに石澤さんか東さんに連絡するんだぞ」
「はい」
「みんな、お前のこと見守っているから。強く生きていけよ」
「野島さんもですか」
「…元気でな」



外階段を上がり、玄関を開ける前に振り向いた時、こちらを見ていた野島さんが小さく手を振った。


**


寝返りを打つ。

もう逢えないかもしれない。
けれど東先生や石澤さんだけでなく、野島さんも、遠くで私のことをずっと見守ってくれる気がした。

私は忘れない。きっと。



***


4月。

大学の入学式。
山科さんの姿はない。彼女は外部の大学に進学したのだ。高校の卒業式で知らされたから、ショック過ぎて泣いてしまった。2月から3月に掛けてちょいちょい見かけなかったのはそのためだったらしい。

けれど入学式の後、早速待ち合わせをした。
以前一緒に行った、花のようなケーキを出すカフェ。

「由珠子さん! ごきげんよう!!」

私を見つけるなり右手を大きく振った。黒のパンツスーツに黒のピンヒールを履いている。つい2ヶ月ほど前はラブリーなお嬢様スタイルだったのに、すっかりシックで大人っぽくなっていて驚いた。そして微かに香る、大人っぽい香水の香り…それはYSLのものだと教えてくれた。
私は…無難も無難な紺のスーツ。香水はなし。

私たちは互いにケーキやタルトのドリンクセットを注文し、早速話に花を咲かせた。

「由珠子さん、何だかお肌がツヤツヤしてとても綺麗になったわ。さては…。ねぇ、バレンタインにプレゼントお渡しした方、結局どうなったの? 音沙汰が全然伺えていなかったわ」
「実はね…山科さんがアドバイスしてくれた通り、デートが出来たの」

山科さんは目も口もまん丸く開いて「やったわ!!」と手を叩いた。周囲のお客さんが一斉にこちらを向いたので、少し恥ずかしくなった。

「だからそんなに綺麗になったのね! お付き合いなさっているの?」
「ううん、振られちゃって」
「えぇぇ!? どういうことかしら? デートで振られてしまったということ?」

私はバレンタインのお返しをもらった夜の事を話す前に、11月に起こった "事件" についても軽く説明した。祖母の話をした時は山科さんも口に手をあて、顔面蒼白になった。

「由珠子さん…! どうして今まで相談してくださらなかったの?」
「家のことは…学校では話しづらくて。だから…」
「…そうね、ごめんなさい。わたくしのデリカシーが足りなかったわ」
「山科さんはなんにも悪くないのよ。むしろこんな私と仲良くしてくれて本当に本当に感謝しているの」

その上で、バレンタインにプレゼントを渡したのはその時助けてくれた人で、1ヶ月後お返しをもらった時に偶然、家まで送ってくれたので一緒に歩くことが出来、それが『デート』だった、と話した。

「だから…多分もう逢うことは出来ないと思うのだけれど、でもあまり寂しくなくって」
「なぜ?」
「その人の話を後々思い出すとね、離れていても見守っていてくれるような気がしてきたの。近くにいたらきっと傷ついたり悲しい思いをしそうだけれど、なんかこう…心の中に生きてるっていうのかな…上手く言えないのだけれど、その方が良いと思ったの」

山科さんは目を潤ませた。そして

「由珠子さん! なんて素敵な恋なの!? わたくし、感動して涙が溢れてしまいましたわ」

と言ってハンカチで目尻を抑えた。

「恋…そんな呼び方なんて出来ない。だって…」
「だって、なんてことはないわ! 由珠子さんの恋はとても崇高、でも同時にとても切ないわ…」

純粋な山科さん。育ちの良いお嬢様。
でも今は私ももう、卑下したりしない。

「そうそう。私、今は母と2人で狭いアパート暮らしなのだけれど、落ち着いたら1人暮らし始めようと思っているの。あと、大学進学をきっかけに自分専用の携帯も持ち始めたから…これからも連絡しても良い?」
「もちろんよ!」

私は連絡先をプリントしたカードを渡した。大学には外部から入学してくる人もある程度いるから、新しい知り合いが出来たら配る用に作成していたものだ。これも野島さんに言われた "いい友達に恵まれるように" のためだ。

「山科さん」
「ね、いい加減わたくしのこと、名前で呼んでちょうだいよ。わたくしはずと由珠子さんとお呼びしているのだもの」
「あ…じゃあ…伊織、さん」
「ふふ、なぁに?」
「…やっぱり学校でもう会えないかと思うと寂しいわ」
「まぁ、いやね。学校が違うことなんか大したことではないわ。今こうして直接の連絡先も交換できたことだし、どこにいたって…地球の裏側にいたって何も変わらないわ」


例え会えなくても心がそばにある。
遠くからでも見守ってくれている。
そうか、野島さんも同じようなことなんだと気づき、山科さんの言葉に心から感謝した。



店の窓の外には、曲がり角に八重桜の木があり、鮮やかなピンク色が淡い春の青空に打ち勝っている。
電線には鳩が止まっている。

鳩。
祖母は退院したらしいが、あの家に戻っていないから顔は合わせていない。
清々した。

鳩から目を逸らし、再び八重桜に目をやる。桜の開花は遅かったが、天候の悪い日が続き、あっという間に散ってしまった。

あの人は今年はどんな顔して刹那の桜を見上げたのだろう。
やはり去年と同じままか。
それとも…何か変わっただろうか。


あの夜の穏やかな表情を思い出す。
いつか、あんな顔でいつも過ごしていけるようにと願う。

春の空。
光。






由珠子編おわり
#12(純代編)につづく


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