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【連載小説】奴隷と女神 #45

家に帰っても響介さんはまだ戻っていなかった。

ちょうどよかった。涙で顔が腫れてしまっているから。
すぐにシャワーを浴びて流した。

23時。起きて待ってようか迷ったけれど、今日は寝てしまっても良い気がした。なんだかどっと疲れてしまったから。

ベッドに入ると、ひんやりとしたシーツがいつもは心地良いのに、今夜は心まで冷やすように感じる。

何もかも忘れて眠りたい。最大の問題は解決したはずなのに、どうして平穏な気持ちが訪れないの。

ベッドサイドのランプを点けたまま目を閉じると、そのままウトウトした。

* * *

ベッドが沈み込む感覚で目を覚ますと、響介さんがスーツ姿のままランプに手を伸ばしているところだった。

「あ、ごめん。起こしちゃったか。灯りを消そうと思ったんだ」
「響介さん…」
「ただいま。遅くなってごめん」

キスをくれた響介さんは、私の頬を両手で包み、真っ直ぐに見つめて言った。

「どうした? 何かあった?」
「えっ…どうしてですか?」
「まぶた…ちょっと腫れてる。もしかして泣いてた?」

シャワーして顔もよく洗ったのに。

「…泣いてないですよ。たくさん飲んだからかな」
「そうか…。同期会は楽しく過ごせた?」
「はい…」

そうは言っても、私が響介さんの身体に腕を回してぎゅっと抱きしめたことで、彼は勘付いたようだった。

「何かあったんでしょ? 話してごらん」

響介さんの胸の中で頷いた。彼の手のひらが私の頭や背中を優しく撫でる。

「響介さんと付き合っている、と2人に話しました」
「何か言われたの?」
「…環は結局以前からそういう関係だったんだろうって言い出して、喧嘩みたいになっちゃいました」
「そうか…。岸川さんには、前にもちょっと言われたって話してたことあったね。僕は彼女にはちょっと嫌われてるっぽいからな」
「環、響介さんに何か言ったりしたんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。彼女がいる営業支援部は何かと接点があるからよく見かけたりするけど、いつも怖い視線を送ってくるから、よく思われていないんだろうなってね」

響介さんは再び私の頬を両手で包んだ。

「彼女たちは小桃李のこと、本気で心配してくれる良い同期だよね」
「でも…前も言いましたけど、当たり前のこと言われても…一般論言われても…つらいだけです」
「うん…けれど今はそう言うしかないのかもしれない。いつかきっとわかってくれるはずだよ」
「わかってくれますかね? 倫理観がおかしい私のこと、理解してくれる人なんかいるんですか?」
「小桃李、自分を卑下する言い方だけはやめてって言っただろう?」
「響介さんのこと悪く言うのも…本当に許せなくて…」

また涙がこみ上げそうになるのを必死に堪えた。

「僕は何を言われても仕方がないけど、小桃李のことはきっとわかってくれる。諦めないで」

響介さんの身体の温かさを感じながら目を閉じた。

* * *

やはり私は会社を辞めようと考えた。

もしも本当に友達なのだとしたら、たとえ会社が変わっても関係は続くはず。それっきりになってしまうのであれば、それまでだった。

けれど転職して私に何が出来るか。
私だから出来ることが、何かあるだろうか。
何も取り柄がないから何でもやる、というのもありか…。

しばらく悩みながら転職サイトのエージェント登録を行い、響介さんにも相談した。
すると響介さんは笑顔を浮かべながら驚くことを言った。

「小桃李が転職するなら、僕も転職しようかな」
「えっ…!? 何言ってるんですか? 響介さんは部長なんですよ?」
「部長だから辞めちゃいけないってことはないだろう」

聞くと少し前からヘッドハンティングの打診を受けているとのことだった。
特にエージェントに登録したわけでもなくオファーが来たという。

会社の規模は今より小さくなるものの、条件は今の会社よりも相当良くなるとのことだった。

「もちろん慎重に考えるけど、悪くない話だ。これを引き合いに今の会社にも色々交渉出来るかもしれない」
「…」
「まぁちょっと考えたんだけど…僕たちが結婚することで納得の行かない異動をさせられる可能性はあるだろうな、と。僕は周囲の先輩方より先に役職に就いたから "やっかみたい" 人たちの格好の餌食になるだろうし。そこまで固執するほど今の会社に残りたいかと言われれば、僕は小桃李との生活を支えていければどこだっていいし」

「…そんな。響介さんは会社に残った方がいいです。私の代わりなんてたくさんいますけど、響介さんの代わりになる人はほとんどいないと思うので。ヘッドハンティングのオファーを受けるくらいの人って、対外的にも認められてるってことですから、不当な異動どころか評価をもっと上げてもらう交渉だって出来るのでは」

「…ありがとう。もちろん小桃李を残して一人で辞めるようなことはしない。きちんと考えるから、小桃李もじっくり考えて。目の前の辛いことから逃げるためだけに焦らないで」

「…はい」

* * *

数日後、会社で志帆を呼び出して相談した。

「転職しようと思ってる」
「えっ? 急に?」
「やっぱり居づらい」
「…環のことが引っ掛かってるの?」

私たちはあの日以来、3人で集まることがなかった。志帆はとばっちりを食らってしまう形で申し訳なかった。
『話してくれてありがとう』と言ってくれた志帆には正直に話した。

「…それもある」

「でも結婚ということになって居づらくなるのは西田部長も同じなんじゃない? 仮に小桃李が退職した後に結婚となったとしても、西田部長の奥さんってこの前辞めた松澤さんですか? ってことになるじゃない」

「まだ絶対内緒だけど…彼も辞めるかもしれない。私が辞めるなら彼も辞める、残るなら残る。でも残ることを選んだら、そういうことを理由に納得いかない異動とかさせれるかもしれないね、とか話してて」

「そういうこともあるのか…」

「なんて言うか、正当な評価されなくなるんじゃないかって…。人間関係も。実際、環はあんな感じになっちゃってるじゃない」

「そうかもしれないけど…ずっとこういう状況が続くわけじゃないと思うよ。それにさ、そういうの気にし過ぎてること、西田部長もちょっと傷つくんじゃないかな?」

「傷つく…?」

「ま、いいや。私、今日早めに上がるようにするから、仕事終わったらちょっとお茶しながら話そ。環には内緒で」

そう言って私たちは17時半に上がる約束をした。




#46へつづく

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