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【連載短編小説】8月の甘い夜 #2

「いいお部屋ですね…」

駅からは少し歩くが、そのおかげでとても静かな住宅街の中に野島次長の住まいはあった。
こじんまりとした低層マンションの4階角部屋。

窓が広くて、角部屋なのもあって採光が良さそうだ。

窓際のソファには貫禄のあるグレイの猫が鎮座していた。
「猫飼ってるんですか?」
「預かってるんだ。主が留守の間は」

僕が近づくと『ニャー』と鳴いた。挨拶してくれてるのかな。
まんまるの顔。パチっとしていた目を細めた。
手を伸ばしても動じないので、頭を撫でさせてもらった。

なかなかかわいいぞ。

「なんて名前なんですか?」

「ロドリゲス」
野島次長が答える。

「えっ? いかつすぎませんか?」
僕が驚くのとほぼ同時に、奥さんが「違うでしょ」と野島次長を軽く睨む。

「ロドリーグっていうのよ」

正直、いかつさはあまり変わらなかった。

猫のロド…なんとかは、目を細めて喉を鳴らした。

4人掛けのダイニングテーブルに着くと、奥さんが “何か飲みますか” と訊いてきた。
「あ、もう水でもなんでも…。あ、猫触ったので、手を洗わせてもらいますね」

僕がそう言うと野島次長は笑った。「飯嶌って面白いやつだな」
「いえ、そんなことないです…よ…」

「飯嶌さん、あまり恐縮しないでね。査定には響かないから」
奥さんも笑って言った。

「うちのシェフが急に都合付かなくなっちゃって、急遽自分で用意しなくちゃいけなくなって」
「シェ、シェフですか?」

野島次長が「彼女の弟で、料理が趣味でよく作ってくれるんだ。近所に住んでて、イベントがあると作りに来てくれる。ちなみにロドリゲスの主がその人」と説明してくれた。

「ロドリーグだってば。ま、彼も普通のサラリーマンなのにね。私が弟と2人で住んでる時は、彼が料理担当だったの。その弟が急な出張で。下拵えはあったから、これをどうにかしないとねって話してて。冷凍でもしておく? とか」
「そしたら飯嶌がいたってわけだ」
「あぁ…そうだったんですね。光栄です…。あ、で、今日は何かのイベントなんですか?」
「うん、彼女の誕生日」

野島次長が奥さんを見てそう言うと、奥さんは照れたように笑った。
今日は8月3日。野島次長の奥さんの誕生日なのか…。

「あ、そうでしたか! おめでとうございます!」
「もうあまり嬉しくない年頃だけどね」

そう言ってキュっと口を結んだ。可愛らしい人だな、と思った。
野島次長はこういうタイプに弱いのか…。

「飯嶌、それで何飲みたい? 大抵のものはあるぞ」
「僕なんでもいいです。あまり酒は強くないですけど…」
「じゃあ夏希が仕込んだアレはどうかな?」

野島次長が奥さんに向かって言うと「オリジナルのレモンサワーなんだけど」と奥さんは言った。
「レモンサワー、大好きです。ってかオリジナルって何すか!」

奥さんは戸棚から、シロップ漬けになったレモンの瓶を取り出した。
「自分で漬けただけなのよ。これを炭酸水とウォッカで割って。私たちも夏はよく飲むの。今は私はウォッカ抜きだけどね」

そう言いながら手早くグラスに氷とレモン、ウォッカを少しと炭酸水を注いだ。
「どうぞ」
「うわぁ、ありがとうございます!」

一口飲んだら、アルコールが薄いせいか、いい甘味がありつつスッキリしていて、とても美味かった。
「うわー、これ何杯でもいけちゃうやつだ!」

良かった、と奥さんは微笑んだ。
「ね、お客さんもいらしたんだし、遼太郎さんもちょっと手伝ってよ」

僕の向かいで頬杖をついて座っていた野島次長が、やれやれと言ったように目を丸くして席を立った。

2人のいる空間は、何というか、和やかだった。
会話の声色というか、間合いというか、2人が醸し出す空気がこの空間を支配するというか。

改めて僕は部屋を見回して、居心地の良さが他にもあるのか考えてみた。

家具とか、置いてあるちょっとした小物とか、どっちの趣味なのかはわからないけれど、オシャレすぎを主張してくるわけでもないし、でも生活感はそんなに感じないし、絶妙だな、と思った。

カウンターキッチンで並んで料理を準備する2人を改めて見て、夫婦っていいな、と初めて思った。

「あ、レモンサワーお代わり、もらっていいっすか?」

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つづく


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