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黒澤明の『乱』には私たちの人間関係の一面が見られる。

なんとなく、うまくかけた気がしたので、授業で書いて発表した黒澤明の『乱』についての独自の考察をここにのっけてみようと思う。書いてて楽しかった。では。


なぜ狂阿弥か?

「乱」の劇中には唯一無二の存在である狂阿弥という人物がいる。特徴的な模様の派手な衣装をまとっている。他の人物が「~ござる」とか「~じゃ」といった言葉遣いをしている中、一人だけ今でいう標準語をしゃべっていたり、会話の中で突然狂言の仕草でふるまったりする。つまり劇中において一人だけ浮いている存在なのだ。なぜこのような人物がずっと、秀虎のそばにいるのか?と思うひとも多いだろう。狂阿弥の役割は冒頭の場面で分かりやすく提示される。秀虎及び三兄弟と小倉、藤巻との会合的なものの中に参加し、皆が座って会話している中、子どものようなふるまいでなにか捕まえるようなしぐさをする。扇子二つと壺でウサギというギャグのようなことをして皆の笑いを誘う。その場面にはそぐわないことを言う(俗な言い方をすれば)、ボケを担当しているのだ。千葉雅也氏の解釈を借りれば、ツッコミはアイロニー、ボケはユーモアである。狂阿弥の言動がその場の空気(コード)を破壊しようとし、それに対して秀虎は怒鳴り声でツッコミをいれ、場を元に戻す。その怒鳴りも他の人に対する怒鳴りとは少し違う声だ。どこか狂阿弥に対する親しみのようなものを感じる。失礼なふるまいをしようものなら、切り殺しそうな人物である秀虎が、狂阿弥が秀虎に対し失礼な言動をしてもその親しみのある怒鳴りだけで済む。お笑い芸人のコンビを見ているようにも感じた。ツッコミの秀虎、ボケの狂阿弥。こう考えてみれば、秀虎のそばに狂阿弥が常にいることの理由も自明的にわかるだろう。

秀虎と狂阿弥の逆転

 冒頭の場面での二人の関係性は物語と共に一気に変化を迎える。息子の太郎、次郎に立て続けに拒否されることで秀虎は一気に気が狂い始める。この映画最大の見どころとも言える、秀虎の配下を皆殺しにされ天守閣を炎で責められるシーンの後、完全にそれまでの秀虎ではなくなり、荒野を放浪しているところで狂阿弥と合流する。そこからの秀虎と狂阿弥の関係性は真逆に反転してしまう。冒頭では秀虎ツッコミ、狂阿弥ボケであったところが、秀虎がボケ、狂阿弥がツッコミとなる。狂阿弥の印象的な言葉がある。「天と地がひっくり返った。前に俺が狂ってお前を笑わせ、今はこいつが狂って俺を笑わせる。(中略)お前は勝手にバカを言う。俺は勝手に本当を言う。」バカはつまりはボケ、本当とはツッコミである。狂阿弥の標準語が私たちの声を代弁してくれているようにも感じられる。狂阿弥のアイロニーはまさにこの関係を端的に表しているとともに、現実それ自体を表している。ただ、完全に二人の関係が反転しているわけではない。狂阿弥は冒頭ではユーモアを過剰には用いずコントロールしていたが、今や理性を失った秀虎のユーモアは留まるところを知らない。秀虎の言動はナンセンスにまで達してしまっている。コードを破壊しまくっており意味が分からない。そこまでに達してしまった振れ幅がなおさら裏切りの悲哀を感じさせるようにはたらいている。その悲哀を狂阿弥が単身引き受ける。秀虎と狂阿弥の一心同体な様がみてとれる。このように、人のふるまいというものはその時々の役割をもって変化することは私たちにも身近に感じられるだろう。いわゆる「キャラ」という概念がそうである。映画や創作の登場人物たちは言わずもがなキャラであるのだが、私たちもキャラを日常生活で使い分ける。親の前、友達の前、バイト先の後輩の前ではそれぞれ違う振る舞いをしている自分がいることに気付くだろう。劇中では真の主体は映画という仕掛けにあるように、私たちの世界を包み込む何かに主体があり、わたしたちはそのキャラだというふうにも考えられるかもしれない。つまり私たちは真に主体的にふるまいを変えているのではなく、私たちの間にあるナニカの要請に従って、ふるまいを変えているに過ぎない。……さすがにそこまで考えるのは妄想に過ぎないのかもしれないが、主体性というものには疑問符はついたままである。主体性、登場人物ときて連想したことがある。言語学者ミハイル=バフチンのドストエフスキーの小説に関する考察である。後述しようと思う。

狂阿弥の発言から見るコードの不確定性

 秀虎が狂った時点で狂阿弥が発した言葉がある。「狂った世で気が狂うなら気は確かだ」と。この言葉がなければ秀虎が狂ってしまったと理解が終わるはずが、実は狂ってしまったのは周りの人間たちを含むこの世なのかもしれないと想像させる。狂ったのはこの世なのか、秀虎なのかは定かではなくなる言葉である。劇中は戦乱の世、その中の人間であるならば、こうした戦は言ってしまえば日常であろう。しかし私たちにとってみれば狂っているのはそうした戦がある世の中である。この言葉は狂阿弥が劇中の登場人物たちとは違うメタな次元にまで一歩踏み込んでいることを示唆しているのではないだろうか。また、この言葉は考察の余地がまだある。私たちの時代においてもいえることなのかもしれない。私たちは自分たちのことを正常だと思い込んでおり、誰々を異常だとか病気だとか判決を下しているが、その判決が正しいとも言えない。また逆に間違っているとも言えない。もし現実に私たちの目のまえでいきなり戦争が起き、人がわんさか死んでいく様をみたら秀虎のようになるのも「正常」なのではないだろうか。この狂阿弥の言葉は、私たちの間に漂っている空気やコードはしょせん相対的なもので、場合によってはいかようにも破壊し、作り直すことが出来るとも解釈できるのではなかろうか。


ポリフォニー的世界観

 通常、小説及び、映画の多くははモノローグという形式をとっている。登場人物たちはその世界の創造主である作者に従属し、ストーリーに沿って行動をし、作者の視点から一つの思想や世界を形成していく。作者に対して主体的、能動的な人物は作品のなかでは存在しない。しかし、バフチン曰く、ドストエフスキーの小説においては、主人公は作者によって自分を決定されることを拒む。作者は自身のモノローグ的世界に主人公を従属させるのではなく、主人公の声に耳を傾ける対話的な立場をとろうとする。これが、ポリフォニー(多声)的世界観である。この場合、作者は対話的な関係に入ることで主人公たちに主体的な返答を促す。そうでなければ他者の声にのみ込まれてしまう。若槻健氏は「ポリフォニー的世界観における人間像は、誰にも完全には融け合わない独自の声を持った主体であり、他者の声を自分の声と同等の価値を持ったものとして尊重して耳を傾け、その他者たちの声の集う中に自らの声を参加させることによって、「自分は何者か」をより深く問う存在ということができる」と述べている。少々脱線してしまったが、乱ではどうだろうか。当然ドストエフスキーと同じ構造を有してはいないが、モノローグに抗おうとしていると思われる人物はいる。狂阿弥である。ところどころで神や仏に関する発言をしている。このようなむごい悲劇にした神仏、つまり作者につばを吐きかけようとする態度も見せている。ところどころで狂阿弥が他の人物たちとは一線を画したメタな発言をすることはこのことの示唆かのようにも思われる。狂阿弥は、自分たちを上から見下ろしたときの役割をわかっていつつもそれにどうしたって抗えない悲しみさえも背負っているようにも見えた。

参考文献

千葉雅也, (2017 ) 「勉強の哲学」文藝春秋
若槻健, (1998) 「『ポリフォニー的授業』観について」 大阪大学教育学年報
望月哲男, 鈴木淳一訳(1995)『ドストエフスキーの詩学』 ちくま学芸文庫


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