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『鬼滅の刃ー無限列車編』に施された仕掛け

 今日観てきた。率直に言ってどちゃくそに面白かった。色々なエッセンスが詰め込まれていて語るべきことはたくさんあるのだが、ここではあえて作品の構造をとらえて内容には踏み込まず、優れた仕掛けを1点だけ書いていきたい。

 映画を観る前に知り合いが言っていた。「なんか煉獄さんって人が出てくるらしいんだけど、アニメの方では最後の方にちょろっと出てくるだけでよくわかんないね。みんなかっこいいとかいってるけど映画まだ見てないから感情移入はできないわ。」
まさにこの言葉の通り、今まで全然知らない人が中心にして出ることが映画を面白くする仕掛けになっているんじゃないかと感じた。

 観客は煉獄杏寿郎という人物を映画で初めて1から知り、そして10までを駆け抜けるように知ることで、この作品の熱量を最大にまで高めている。

 長く続く作品では、良くも悪くもキャラクター同士の内輪ネタに終始していく。各々好きな作品を想像してみればわかる通り、仲間や家族との絆が作品に通底する主題としてじわじわと描写していくことでその深さと尊さを表現していく。炭治郎と禰豆子、善逸、伊之助の関係性はもちろんそれにあたる。今まで苦楽を共にして頑張ってきたことが感動のための大きなファクターになる。しかしそのことはときとして内輪ネタとして観客の目に映ってしまうことがある。そのキャラのことをよく知っているからこそ伝わる、成立するやり取りも多くなる。長く続く作品に途中から参入しづらいのもこれがおおきいのではないか。みんなのセリフの裏にある不文律をいまいち把握しきれないから感動を味わいきれないということもよくよく起こる。

 しかし、今回の無限列車編では視聴者が全く知らず主人公たちも知らない煉獄さんが中心に据えられている。そのことで内輪ネタ的な要素は一切排除され、人間同士のゆっくりとした味わい深い微妙な関係は描写せずに、それこそ一気に炎が灯るように描写し、映画というパッケージに詰め込むことで余すことなく味わえるようになっているなと感じた。それはひとめぼれの感覚に似ている。観客に初対面からすべてを知ろうとするところまで経験させ、てっぺんまで駆け抜ける。
そういう意味で映画というメディアで公開するにはうってつけの章および話の構成だった。

もう一回見に行きたい。

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