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実写「夏目アラタの結婚」原作未読の感想・本当の狂人はお前じゃない

今日、映画館で「夏目アラタの結婚」を観た。

随分前にTwitterか何かで原作の冒頭かあらすじを読んだ記憶がある。非常に印象的だったガタガタの歯の美女死刑囚が映像化されるというので、映画館に足を運んだ。

…というわけでもなく、主演の柳楽優弥の演技に興味があったということもあり、おおまかなストーリを知っていた本作で彼の演技をお目にかかることにした。

結論から言ってしまえば、彼の演技より本作のストーリーそのものに全ての注意を持っていかれたまま映画館から出ていくことになった。未回収の要素や未開示の情報もあり、原作への興味をより一層掻き立てられた。

さて、本記事は、筆者が原作を読むことによってそこで開示される新情報に影響されることがない今のうちに純粋な映画の感想、ひいては考察をしていくものである。併せて、僭越ながら日本の映画作品への軽い批評もさせていただく。

なお、本記事は実写版・ひいては原作のネタバレを含むので、未視聴・未読の方は注意してほしい。


前半:高純度の狂気

冒頭が一番ぶっ飛んでいる。

ピエロ姿で死体をバラバラにする死刑囚が登場したかと思いきやその死刑囚との文通を楽しんでいる被害者遺族の男児。そしてなりゆきで死刑囚にプロポーズする児童相談所職員に死刑囚の無罪をなぜか信じる彼女の弁護人ときた。まともな人間が一人もいないではないか。

被害者の未発見の頭部を探していくにつれて…という触れ込みだが、にしてはアラタの行動はあまりに突飛で到底ついていけるものではない。そもそも、手紙を書いた本人でないというのが真珠にバレた時点で茶番をやめればいいものを、婚姻届を書いた挙句本当に役所に提出している。

だが、最終的にこの狂気は観客にも多少納得できるものとして落ち着く。正直なところ、最後まで鑑賞た上で本作でいちばんの狂人は誰かと聞かれたらあの遺族の男児と弁護士だ。自分の父の仇との文通が楽しくなっちゃう子供と血まみれのピエロ姿で逮捕された真珠の無罪を信じる男。少なくとも映画版では、この2人だけは本物の狂人だ。

後半:真相解明

ただのプロットの文字起こしはしたくないので端折ってにはなるが、裁判が進むにつれて真珠の出自の謎や事件の真相が明らかになっていく。

自分が本当は戸籍上の品川真珠ではないこと、母親の結婚相手は共犯ではなかったこと、その彼を殺したこと、既知の被害者については同意殺人だったこと、などが真珠の証言や彼女がアラタにこぼしたヒントなどから暴かれていく。

後半になると真珠も「人を操ろうとする凶悪殺人犯」から「歪な出自で道を間違えてしまった死刑囚」へと風変わりしていく。このあたりから彼女に共感できるようになってくる観客も増えるだろう。

エンディングはぜひ劇場で直接観てほしい。

感想・考察

さて、ここからはより筆者の主観に基づいた感想や考察を書いていく。

アラタと真珠の狂気の源

冒頭はただのぶっ飛び児相職員だったアラタと、ただの凶悪殺人犯だった真珠だが、この2人の狂気にはある共通の理由がある。異常なほどまでの破滅的自己犠牲である。

そもそもアラタがなぜ死刑囚なんかと面会することになったかといえば、事件の被害者の未発見の頭部を見つけるためである。普通、いくら児相職員が子供を助けるためとはいえ死刑囚と面会なんてまずしたくないだろう。そこをアラタは結婚までしてしまい、最終的に真珠を助けるため幼児や人間の頭部の白骨化した遺体を見つけてしまってもなお真珠を助けようとした。

これがヒーローものの映画ならまだしも、彼はただの児相職員である。

真珠も、よく考えれば同じなのである。歪な家庭環境から命を軽んじたり人とのコミュニケーションの取り方を完全に間違えてしまうことはあれど、3人の殺害は彼らを助けたいという真珠の思いから生まれた行動である。自分が殺人犯にならないことより、彼ら3人を苦しみから解放することを選んだ。手段を間違えてはいるが。

アラタは児相の所長という父親代わりと出会ったことで道を踏み外さずにいることができたが、真珠はそうではなかった。序盤で真珠が勉強についていけなかった自分を初めて面会に来たアラタに重ねたように、今度は自分の恵まれない家庭環境をアラタに重ねたのだ。

「かわいそう」を嫌う真珠

裁判にて彼女に向けられたアラタの哀れみの眼差しに取り乱す真珠。この理由は果たしてなんなんだと悩みに悩んだが、結局、これは映画で直接描かれることのなかった彼女の体験に由来するものだろう、というところに行き着いた。

一瞬触れられてはいるが、真珠は非常に有名な死刑囚ということもあり獄中で頻繁に取材を受けている。その中で、若くして死刑囚となった真珠からメディアが聞き出したいことなど、彼女がいかにかわいそうな生い立ちを持っているか、それかいかに邪悪な動機で殺人を犯したかなどばかりだっただろう。

彼女を彼女たらしめた要因には興味はあれど、彼女に興味がある人間などいなかったのである。だからおそらく彼女を取材した記者、ひいては彼女に興味を持った全ての人間(弁護士を含む)は彼女の生い立ちにだけ興味を持つ人間、もしくは彼女が無実だと信じる狂人だけだったはず。真珠が人殺しだと認識した上で彼女に興味を持った人間はアラタだけだったのだ。

アラタのカメリアコンプレックス混じりの動機を見抜いた真珠だったが、最後にはそれも受け入れることになる。非常に美しい心情変化だった。

メタ考察と批評:日本の映像作品について

ここからはメタ的視点で本作品について書いていく。

まずは批判から。あまり感情的になってはいけないので、箇条書きスタイルで失礼する。

話が丁寧すぎる

これは本作品に限ったことではなく、日本の映像作品ほぼ全てに共通するのだが、より詳細に問題を挙げるならば

  1. 情報だけでなくその解釈まで話してしまう

  2. なぜかセリフが被らない

  3. 話しているのに話し言葉じゃない

などがある。順番に話そう。

1つ目に関しての例で言うと、例えばカフェで

桃山「で、頼み事を聞いちゃった、と」
アラタ「うん、親父さんの頭の場所を聞き出すって」

みたいなやりとりがあったが、桃山が頼み事の内容を知っていることが示唆されている時点でアラタが繰り返す意味がわからない。

あの男児のなんらかの頼み事を受けた、という情報だけ観客が受け取り「なにをするんだろう」と考える余地を与えても良いし、

桃山「で、どこまでやる気な訳?面会はしに行くんでしょう?」
アラタ「あいつの親父さんの頭の場所、聞き出してみようと思う」

みたいにしても良かったのでは?と思ってしまう。

他には、真珠のストーカーについての証言を受けて弁護士が真珠の痩せていた頃の写真を出し、「痛々しさの魅力ってありますよね」みたいなことを言うが、続けて「それに惹かれる男もいるでしょうね」と言ってしまう。

いや、そこは観客が察したりするところじゃないの?と思うシーンはしばいばあった。

2つ目についてはそのままだ。なぜか日本の映像作品は絶対に複数のセリフが被らない。ターン制で話しているようでとてつもない違和感だ。

3つ目はさらに細かい部分になる。

「待っていた」「ある時」「〇〇や△△」なんて人は話すときに使わない。「待ってた」と言い換えるし、「ある時」と言わず具体的にどのくらい前かを言おうとするだろうし、「〇〇とか△△」と言うだろう。

これもたまらない違和感を感じる。もっと自然なセリフにならないものか。

「第N回後半期日」がいらない

裁判のシーンに映る際のテロップ、あれは本当にいらない。テロップなんてここ以外で出ていないのに、ここで出す意味が正直わからない。裁判長に言わせたり、記者に言わせたりしてしまう方がよっぽど自然だと思う。

ポストクレジットが直接すぎる

あえてポストクレジットで何が流れたかには極力触れずに書くが、もっとアラタの顔を隠して濁してみたり、そもそもポストクレジットの映像は出さずにヒントを散りばめたりして想像を掻き立てれば良いものを、もう答えをどーんと出してしまっている。情緒なんてあったもんじゃない。


さて。愚痴はこのくらいにして、本作品をメタ的視点で誉めていこう。

面会室の演出

ライティング、ガラスの反射、カメラアングル…あの狭い部屋で生み得る演出全てを網羅したのではないかとまで思う。

真珠が面会室に入るときに彼女の目の奥に見える小さい光、彼女の顔にかかる自然でいて狂気的な陰影、面会者の顔を映すアングルに反射で映り込む真珠の顔、面会者の頭の上から覗く真珠の目線、真珠と面会者の間にあれど2人を隔てることは決してないガラスの板。

いくらでも挙げられる。

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の予告に、ジョーカーが面会室のガラスに口紅で描かれた弧に自分の口を重ねるシーンがあるが、あのような演出の極致を今作品に見た。

ガタガタの歯

これには制作側も力を入れた、という話は少し耳にしたが、これがあるのとないのとではやはり作品のレベルが変わってくる。

そもそも、漫画の実写が失敗する一つの原因として、コスチューム等があまりに綺麗であるということがある。砂埃と土まみれの主人公登場すべきシーンで、ほんのり汚れただけのパキパキの新品を纏った主人公が颯爽と登場する不自然さが往々にして漫画の実写にて問題であった。

だが、今作品、唯一絶対凝るべき点で凝ってくれた。作者の意向があったようだが、自分の作品が実写化されたときに最も重要な点を作品が制作される前に知っていたというのも、素人ながら感心せざるを得ない。


終わりに

偶然思い立って観た作品ではあったが、素晴らしい作品だった。計画的偶発性と言おうか、気まぐれでこんな作品に出会えたことを幸運に思う。

筆者は上でも書いた通り、日本の映像作品の脚本や台詞回しが好みではなく、今まで忌避していた面もあるが、本作品がそんな私の価値観を少し変えてくれたように感じる。

鑑賞直後に立ち寄った書店では原作第一巻が悉く売り切れていたが、ぜひなんとしても原作を読みたいと思う。


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