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記者席での観戦を通じてサッカー日本代表に心を一つに応援する羨ましさと怖さを見た

日本サッカー協会のコンテストの結果、ウルグアイ戦を記者席で観ることになった

先日の日本サッカー協会のnoteコンテスト「#新しい景色2022」で優秀作品に選ばれたことから、なんと私は3月24日の日本代表対ウルグアイ代表の試合を記者席から観覧するという幸運に恵まれた。

今回の内容はVoicyでも配信しているので、何かをしながら聴きたいという方はこちらからお聞きいただければと思います。

2300通もの応募の中から5人のみ選ばれるというもので、こんなにありがたいことはそう無いでしょう。noteというブログサイトがサッカーを伝えるということを大事にし、そしてそれに日本サッカー協会が応えてくれたというもので、私は選ばれた以上は国立競技場で今のサッカーを観て、感じて、そしてそれを記事にしたいと思う。

入り口からしてもう違うんです


思えば最初からたまげることばかりだった。

集合からして普通の入り口ではなく、恐らくプレスの特殊な入り口だったのだ。日本サッカー協会の担当の方のメールを見返してもなかなかその入り口が見つからない。集合時間に近づくに連れて少し焦るが、代表選手の入り待ちをする人たちの近くにそれはあった。

熱狂的なファンに少し距離を取る形で担当の方を待つ私。
今日は一体どうなるんだろう。

サッカー協会の方から今日の流れについてお話を受ける。ピッチ付近から練習を拝見し、試合を記者席で観て、終了後にはミックスゾーンや記者会見にも参加できるらしい。

記者席やピッチで観るには色々と細かいルールがある

ただ、写真を撮影できない場所や写真は良くても動画を撮影できない、SNSに公開できない場所もあるのだという。私以外にも5人いるが、どこで何をしてはいけないのか色々制約がある中で誰も質問しない。

やべえ。
これ理解できていないの私だけじゃねえの?

となると…
これは聞けない。
聞きづらい。

とりあえず、皆さんがしていないことはするまい。
あとは、一応何かするときは確認しよう。

サッカーの代表戦というのは、様々な理由でしていいこととしてはいけないことが細かく定義されているらしい。なるほど。そういうものなのか。郷に入っては郷に従えということだ。ルールには作られたなりの理由がある。

参加者がサッカーマニアばかりでないことに安どする相撲ライター

記者席に着き、同じくこの幸運に恵まれた方達と自己紹介をしあう。

ワールドカップでサッカーを観たという方も居れば、ユニフォームの収集をしている方も居た。お子さんがかつて選手と試合に入場したという経験をお持ちの方も居た。その中に、何故か相撲ライターである私も居た。

サッカーに対するこれまでの興味の濃淡は異なるが、少なくともあのワールドカップで熱狂して、そして記事を書き、それを選んでもらった者同士だから、逆にその違いが面白い。これがもしサッカーマニア、専門家ばかりだとしたら相撲ライターとしては大変困ってしまったことだと思う。

少なくともレアルマドリードのバルベルデをあの場で認識したのは私だけでなかったことは本当にありがたいことだった。どこの世界もマニアの目線は怖いのだ。私はそのことを相撲の世界でよく知っている。今日はマウントを取り合う場ではない。そのことにひどく安心した。

ピッチに降りて感じる熱量の大きさ

その後ピッチに案内していただいた。記者席ではパスを付けていなければいけないのだが、ピッチだと今度はオレンジのビブスが必要なのだという。写真は撮っていいらしいが、ここは動画はNGだという。細かいことが色々怖いがルールは理解できた。

救急車や消防車が待機するという観たこともない光景に唖然としながら、ピッチに立つ。


これは記者席から


シュミット選手の後ろから


ゴール裏


子供たち


真ん中に居るのが三笘選手

試合の1時間前だというのに、もう観客は熱を帯びている。
まだピッチに選手すら来ていないのに。
意志のある声が、そこかしこで聞こえるのだ。

写真嫌いの私が写真を撮らずにいられなかった理由

恐らくこの写真は、客席から質の良いカメラで撮った方が臨場感のあるものにはなるだろうし、そもそも私は普段から写真を撮らないので画角なども大して良いものが撮れるわけではない。そのことを重々心得ている。結局心の中に思い出は残るものだし、だからこそ写真を見返すようなことは殆どしないのが私である。

ただ、今日ばかりはピッチも客席も、写真を撮らずにはいられなかった。
この光景は記録に残しておくべきだと感じた。
それほどこの記録は価値のあるものだと思えたのだ。

一体感がもたらす幸福な空間が、ピッチ上にあった

ここに来ている人たちの期待は同じだ。
日本代表の良い試合を観たい。

期待の選手は異なる。千駄ヶ谷の駅から観た中では、その多くが三笘選手と堂安選手のユニフォームが多かったように、そこには差がある。ただ、一つの大きな意志を競技場全体が持つという光景は、私がよく目にする大相撲とは確実に異なるものだ。だから、私にはその統一された期待がとても新鮮だった。

両国国技館だと、誰かが勝っても全ての観客が同じように幸せになることは出来ない。誰かの贔屓が勝つということは、誰かの贔屓が負けることを意味している。だからこそ、一つの結果で全員が幸せにはなり得ない。それは面白いことなのだが、一体感がもたらす幸福な空間があるというのは羨ましいものだ。

選手がピッチに現れると、そのボルテージは更に上がった。地鳴りのような声援が代表に向けられる。コーチや監督の指示が選手に聞こえないというのはこういうことなのか。何万人いるかは分からないが、ピッチの中央で聞く声援はまるで自分に向けられたもののように感じた。

これは、確かに力になる。
ホームだと力が出る理由が分かる気がした。

サッカーに限ったことではないし、恐らくWBCの時の東京ドームのピッチでも同じ質のものを感じることは出来たと思う。

この熱量を生み出したのは、あのワールドカップがあったから

ただ。
この分厚い期待を帯びた声援は、あのワールドカップを経たからこそのものだ。

人の期待は明るい未来が見えないところにはそう向けられない。これだけの期待を集めることが出来たのは、確実にあのドイツ戦とスペイン戦、そしてわずかに届かなかったクロアチア戦のことがあったからだ。

すげえ。
サッカーってこんなに人を動かす力があるのか。

同じ大歓声であっても、テレビを通じて観るのと現場で観るのでは全く感じ方が異なる。すごいとは思うが、でもその意志や分厚さや、それぞれの声援に帯びた想いを少しばかりだが感じることが出来るのが競技場だ。

そしてそれは、ピッチの中央と記者席でも異なるものだと私は知った。

恐らくそのことは、普段から競技場に来ているサポーターも、プレイしている選手も、そして取材を続けている記者も知りえないことなのかもしれない。何故なら、彼らにとってはそれぞれの立場で観ている光景しかないのだから。

期待の裏にある怖さとは

ただ。

30年も浅くサッカーを観ていると、この幸せな期待をいつまでも観客が抱き続けられないことを知っている。

興味はどうしても移り行くし、結果を出せないものに対して人は冷たい。サッカーの力と素晴らしさを感じながらも、何度となく人気低迷を繰り返しているのはそのせいだ。

サッカーが羨ましいと感じながらも、この期待に応え続けなければこの幸せな空間は簡単に壊れてしまう。そして、期待はやがて失望へと変わっていく。その冷たさを目の当たりにしながら、それでも選手は闘う。

期待の大きさは危うさも内包している。同じ期待を抱くなら、その結果が得られないとしたら人は離れる。だから、多様な楽しみ方がある方がある意味で楽なのかもしれない。

羨ましさの裏側にある恐ろしさ。
日本代表はそういう闘いを経て、今は期待を一身に受けている。
これは、選手もそうだが観ている方にも覚悟が要ることだ。

期待って、楽なもんじゃない。
ウルグアイから先制された時にそんな現実を思い知らされた。

上がりきった期待値との闘いは既に始まっている

もしこの試合を簡単に勝ったとしたら、私はその危うさには気づかなかったかもしれない。単にサッカーの持つ一体感に羨望の眼差しを向けるというだけで終わっていた可能性が高いからだ。

既に昨日の結果を「かろうじで」引き分けと報じているメディアもある。ウルグアイ戦の引き分けに対して期待値を下回っていると評価する見方もある。三笘選手に最低評価などという書き方をする者も居た。

試合の結果にメディアもファンも一喜一憂する。
期待値を下回ると、その期待が刃となる。
それがサッカー日本代表の宿命だ。

目の前の敵だけではなく、自国のメディアやサポーターとさえ向き合わねばならない。これはとんでもない世界なのだ。だからこそあれだけ分厚い歓声を受けられるし、6万人もの人の関心を焚きつけられる。

だから私は、素晴らしい経験をしたのだ。
楽しいばかりじゃない重さを目の当たりにしたからこそ、逃げずに追い続けてみたい。

…あ。
いや。

やっぱ怖いな。。
まだ引き返せるかな。

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