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瓶詰めの兄弟

「れっきとした君の兄弟だよ」
おじさんはそう言って瓶の中でホルマリンに浸けられた肉塊を指差して言った。
俺は外で弟たちとボール遊びをしていたんだけれど、次男が取り損ねたボールが小さな窓からこの薄暗くて埃っぽい部屋の中に吸い込まれてしまったので、怖がりな次男に代わって仕方なく俺が窓から侵入してボールだけ取り戻そうとしたんだ。
そこは古い病院の中で、木製の棚に、動物の頭蓋骨や瓶詰めの内臓など色んなものが置いてある「資料室」という場所だった。
ボールだけ取って戻ろうとしたが、不意に肩を引かれたような気がして振り返った。
そこには瓶に詰められた、林檎くらいの大きさしかない小さな塊の、俺の兄弟がいた。
俺たち兄弟は三つ子だ。
数が多かったので、難産だった。でも何とか全員無事に産まれたと知らされていた。
でも本当は俺たちは四つ子だったらしく、瓶の中の兄弟は長男の俺の体に不完全な形でくっついていたらしい。
あまり良くない状態だったので、それを切り取って、後学の資料のために瓶の中に詰めたんだそうだ。
瓶の中を指差しながら医者であるおじさんはそう教えてくれた。
知られざる兄弟の存在に驚きを隠せなかった俺は、ボールの事も忘れて小さな彼を観察することに夢中になっていたが、外から「おーい」と俺を呼ぶ声に意識を戻された。
「さぁ、もう出て行きなさい。今回のことは秘密にしてあげるから。次からはちゃんと玄関から来るように。」
おじさんはそう言って、俺に外に出るよう促した。
「また会いに来てもいい?」
考えるより先に俺の口から言葉が飛び出てきた。
おじさんは「もちろんだとも」と快諾してくれた。

それから、俺はちょくちょく暇を見つけては、瓶詰めの弟の元へ足を運んだ。2人の弟は最初は素直についてきていたが、2回目以降は資料室を不気味だといって近づくのを嫌がった。
だから、弟に会いにくるのは基本俺だけになった。
資料室は少し埃っぽい場所だったが、俺はなるべく弟の周りだけは綺麗にしてあげたいと思って部屋を訪問するたびに軽く掃除を始めた。
おじさんは俺に何も聞かず、また何も言わずに掃除道具を貸してくれた。
俺が勝手に来て勝手に掃除してくれるから、おじさんとしても悪くなかったからだろう。
そのうち、無言で弟をじっと見るのもなんだか申し訳ないので、俺は明日の天気や他の兄弟の話とかを彼に向けて話し始めた。
最初は独り言みたいで気恥ずかしいと思ったりもしたが、すぐに慣れた。
弟は口が無いので喋れないし、耳も見えないのできっとこっちの声も届かないかもしれない。
傍から見れば、この光景は滑稽だろう。狂気とも感じとられるかもしれない。
それでも、俺は俺から切り離されたこの小さな肉塊をただの物のように扱いたくなかった。

ある日、俺の引越しが決まった。
父と母が別れるので、俺は父へ、残る2人は母へついていくことになったのだ。
しょうがない事だ。もうどうにもできない事だ。
毎日ぴりぴりした二人の親の間の空気を、これ以上吸うことも無くなるんだなと少し寂しさを感じた。
引越し前日は、この町で毎年行われる夜の祭を兄弟3人水入らずで過ごそうと約束しあった。
一年に一度秋頃にある、死者の魂を弔うお祭りだ。皆んなそれぞれ好きな怪物などの仮装をして街を練り歩き、音楽やお菓子を楽しむ。
俺たちはこの祭りが大好きだった。
お別れ前夜にしては上出来の夜だった。
お祭りの夜。3人で賑やかな夜の道を歩いていると、あの資料室の窓が目に入った。
透明なガラスは、その向こうにある明かりのない空間のせいで闇の色に染まっていた。
その闇色の部屋には俺だけが知っている弟がいる。
俺がこの町から離れたら、自然と彼は独りぼっちになってしまうのだろう。
それは嫌だから、彼を今夜迎えに行こうと思い立ったのは、弟を思う兄としては当たり前だろうという確信があった。
おじさんの元へ最後の挨拶のために、俺は病院に向かう。
お気に入りの場所だったからと、資料室にも最後に入らせてくれた。
窓の位置と、弟の位置をそのとききっちりと記憶して、俺たち兄弟はおじさんの病院を後にした。

その日の深夜だ。
俺は1つのランプとマッチを掴み、バッグを肩にかけると、まだ祭りの気配が少しだけ残っている街へと繰り出した。
子供達の影はもう通りから消え去っている。
代わりに地に映る黒く伸びた影の主は、子供と呼ぶには少し大きく、大人と呼ぶにはまだ幼い青年たちのものだった。
お酒を飲んで顔を赤くし、頼りない足取りで彼らは踊ったり笑ったりしている。
俺はなるべく彼らの視界に入らないように、建物やポストの影に隠れながら、あの資料室がある病院まで向かった。
当然ながら中から明かりらしいものは見えない。
玄関もしっかり施錠されていた。
俺は「二度もごめんなさい」と思いながら、資料室の窓に手をかけて引いた。
さっき俺がこっそり鍵を開けたままにしておいたから、難なく窓は開いた。
周りに人影がない事を確認したのちに、窓から室内へ侵入した。
闇だ。夜よりも暗い闇が室内に広がっている。未だ明かりが消えない街の光さえ、この資料室には届かない。何も見えない。
流石の俺も少し怖気付きそうになったが、部屋が暗いだけであとは何も変わりはないと自分に言い聞かせて、部屋を進んだ。
持ってきたマッチに火をつけ、ランプに火を灯す。
小さな明かりだったが、とても心強い存在だ。
慎重に部屋の中をそろそろと進んでいく。どれだけ小さくても火気の恐ろしさは知識として充分に聞かされていたから、ランプだけは気を付けて扱う。
目的の彼はすぐそこにいた。
瓶の中でおとなしく丸まっている。
明かりを当てると、眩しそうにホルマリンの中の体が光を反射させた。
「一緒に帰ろう」
俺はそう声をかけると、そっと瓶を持ち上げて、なるべく静かに鞄に入れた。
激しく揺らさないように、揺かごを揺らすように優しく連れて行こう。
あとは来た道を戻るだけだった。
ゴトンと、何かが動いた音がした。
反射的にランプの火を消す。
失せる血の気。
足は固まって動かない。
自分の心臓が跳ね上がる音も聞き逃さないように耳に神経を集中させる。
正体不明の足音がだんだんこちらに近づいてくる。
床を蹴り飛ばすような荒々しい足音から、いつものおじさんでないことは簡単に察することができた。
舌足らずな声で「あはは」と、足音の主。酔っているようだ。おそらく男。
視界が悪い分、よく音を拾おうと努める。
なんとなく、祭りの熱に浮かれて酔った輩がその熱を冷ますことなくこの暴力的な行為に走っているのだろうな、と察した。
早急に来た窓からこの部屋を出なければならないという考えが脳を駆け巡るが、まず相手が離れてからだ。
俺が移動して、音を出してしまったら、こちらの存在に気づかれてしまう。
空を切る音。
続いてまた何かが落ちる音。
「なんだよこれ。気持ち悪いなぁ」という声。
酔狂にも侵入しただけでなく、物を壊して回っているらしい。
確実に近づいてくる足音は、ついに資料室のドアの前まで来た。
まずい、と思ったのも束の間。ドアは開かれ、黒い影が入ってきた。影は、棍棒のようなもので資料室の物を次々と小突いては床に落としてこちらに向かってくる。
だが俺のことはまだ視認できていないようだ。
見つかってはまずい。何をされるかわからない。どうしよう、と考えていた時だ。
「忍び足で、姿勢を低くして、あの窓に向かえばいいんだよ」
俺の鞄の中から、小さく囁くような、俺と同じくらいの年齢の子供の声が聞こえた。
誰の声かは考えなくてもわかる。
彼はもう一度俺だけに聞こえる声で囁いた。
「まっすぐ歩いて向かって。大丈夫。一緒にいるよ」
俺は無言で頷くと、ゆっくりと音を立てないように窓に向かった。
泥酔しているらしい侵入者は、おぼつかない足取りではあったが、ゆっくりと部屋の中をうろついていた。
部屋中に置かれた棚や机のおかげで、姿勢を低くしていればまず見つかることはない。
暗い室内の中、頼りない光を室内に取り込むあの窓へ向かう。
もう出口はあと数歩先だ。
俺は相手との距離を見計らってから、窓から一気に飛び出ようとした。
しかし、窓は目の前で突然ぴしゃりと閉じられてしまった。
どうしてか?何故なら侵入者はもう一人いたからだ。
窓を閉じた人物は頭に深く被り物を着けていた。右手に銀色に光る燭台をもっている。たしかあれは医者のおじさんのものだ。
全身黒い服を着ていたから、闇の中ではわかりづらくて、見逃してしまっていたのだ。
そいつが窓を閉じた瞬間にやっと俺はそいつを視認できた。そして、それは相手も同じようだった。
暗い空間にいてもわかる。そいつが僕に向かって大股に歩きだし、左腕をこちらに伸ばしてきたことが。
反射的に僕は脱兎のごとく駆け出した。
わざと狭い隙間や机の下を通って相手をかく乱させる。
「…おい!ガキがいたぞ!」
窓を閉めた泥棒がもう一人に聞こえるように言った。
あいつらは泥棒、俺は目撃者、これは思ったよりもずっとまずい!
心臓がばくばくと跳ねて、胸が痛い。息も落ち着かない。どうしよう…!
資料室から飛び出る。どこから逃げればいい?頭がぐるぐると混乱していると、また鞄のなかから声が聞こえた。
「正面出口はやめよう。見つかりやすいから。おじさんの部屋の窓から出よう。手前から2番目の扉だよ」
俺は、言われた通りに手前から二番目の部屋の扉の中に逃げ込む。
「鍵を締めて!」
また言われた通りに鍵を閉める。頭が焦る気持ちでいっぱいだから、指示があるとすごくやりやすい。
部屋を見渡す。部屋には落とされた本と、本棚と、本と、荒らされた机と、分厚いカーテン。目指すは、カーテンの向こう側にある窓だ。
ドアノブをがちゃがちゃと揺らす音がすぐ後ろから聞こえる。
僕は振り向かずにそのままカーテンに駆け寄って、カーテンは開かずにもぐりこんだ。窓を開けてさっさと外に飛び出ると、また窓を閉めた。
これで、少しでも時間稼ぎになるといいんだけれど!
俺は外に出ても、足を止めることなく、広い道じゃなくてなるべく大人が通りにくそうな狭い道に向かって駆けだした。
道の影に隠れたところで、後ろを振り返る。あの建物が見える。さっき俺が飛び出た窓が、内側から割られるのが見えた。

「やったね!」
鞄から弟の声が聞こえる。
「やったよ!」
俺はその声に応えると、鞄から弟を出してあげた。
瓶のなかの小さな弟は小さく飛び跳ねたように見えた。
ただの肉の塊にしか見えないが、彼はやはり俺の弟だったのだ。
嬉しくて俺は瓶の表面を撫でまわした。キュッキュといい音がした。
「お前のおかげだよ、ありがとう」
お礼を言う。会話ができて、とても嬉しいし、そのおかげでおそらく命を救われたのだ。
瓶の中の兄弟は応えた。
「それはこっちの台詞さ。あのままあそこに置かれていたら今頃どうなっていたことか。良い弟を持てて、俺は幸せだよ」
「ええっ」
俺は素っ頓狂な声を出してしまった。だって、
「弟はそっちだろう?」
そう、弟はそっちの方だと思っていたからだ。
弟はしばらく黙ると、こう応えた。
「そもそも、ほとんど同じ時間に生まれたから、どっちが兄とか弟とか関係ないよな?」
それはまあ、確かにね!
帰り道、暗い闇、俺たちふたりは静かにだけど、明るく笑いあった。

家に着くと、俺は疲労でぐったりと眠り込んでしまった。瓶の中の兄弟とまだ話したいことがったのだけど。
強く閉じられたまぶたの裏の黒で視界がいっぱいになると、「おやすみ」と聞こえた。
その夜、夢を見た。
俺と弟たちはボールで遊んでいた。
また次男がボールを取り損ねて、ボールは資料室の窓の中に吸い込まれた。三男が取りに行けと言うと、次男は怖がって行きたがらない。
不機嫌になる三男を俺がやれやれという目で見ていると、四人目の兄弟が現れて、「おじさんに素直に言えば、返してくれるはずだよ」と次男に声をかけた。
顔は見えなかったが、きっと俺たち三人にそっくりだったはずだ。
「四人で一緒に行こう」
俺が声をかけると、三人は笑って返事をした。

次の日の昼だった。
昨日は会話できていた小さな兄弟は、もう黙り込んでしまっていた。
眠っているのではなく、あの奇跡は昨日限定だったらしい。
でも、俺はこの小さな彼がちゃんと外での刺激をきちんと受けていることを知れたから、もっと彼を大事に扱おうと思えるようになった。
またいつか、話せる日がきたら、たくさん会話をしよう。
きっと喋るのは嫌いじゃあないはずだ。
母さんと二人の弟と別れを済ませると、俺と父さんは荷物を抱えて駅に向かった。
二人の腕で持てるだけの荷物。これらが俺と父さんの全部だった。
忙しない人々の雑踏のなか、汽車がくるまで俺と父さんは身を寄せ合ってただ座っていた。
父さんは心細そうに駅の時計を眺めていたが、俺は鞄のなかの弟をどこに置いてやるか考えていた。
しばらくすると、人ごみの中から見覚えがある人が現れた。
医者のおじさんだ。
ギクリとした俺はつい鞄を抱えこんだ。
医者のおじさんは、「またお会いしたら一緒に食事でもしましょう」とか、父さんに当り障りのない会話をしていた。
おじさんは昨晩自分の病院に泥棒が来たというのに随分と余裕そうだ。
おじさんは最後に父さんと別れの挨拶をすると、僕に言った。
「彼をよろしく」

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