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運命は匣の中

10年前。
この日からその日は俺の誕生日になった。
空はどんよりとした重苦しい雲に覆われ、ちらちらと雪が静かに地上に降り注がれていた。
虚ろな目でその時の俺はその光景を眺めていた。
この身を包むのはゴミ捨て場で拾った厚手の大人用のコートだ。身長が大の大人の半分くらいしかなく、骨に皮が付いた程度の身体を持つ当時の俺にはこの環境は厳しすぎる。
何処ぞの使われてない納屋でこそこそ隠れて過ごしていたが、納屋の主人に見つかってしまい追い出されてしまった。それだけで終わっていたら只の不幸な日の夜だが、その日は俺にとっては運命の夜だった。
白い粒は容赦なく俺から体温を奪っていく。路地裏のゴミ捨て場でどうにかゴミを組み立てて屋根を作り、その下にうずくまっていたが、限界は近づいていた。
「たすけて...」
ぼそりとした声が自分の口から漏れた。漏らした声は白い吐息となって誰もいない夜の闇に溶けていった。
うずくまって、目を閉じる。
唐突に目の前に気配を感じた。
「ここは...?」
大人の声がした。
目を開くと、さっきまで誰も居なかった俺の目の前に見慣れない風貌の男がいた。
手には奇妙な装飾が施されたリンゴくらいの大きさの匣を持っており、ここがどこなのか本気でわからないのか辺りを見渡している。
積雪の中足音も立てずに現れた眼前の男に驚いて、思い切り息を吸った俺は冷気のせいで小さく咳き込んだ。
その声に反応したその人は、ようやく俺のことを視認した。俺の姿が相手の眼に映る。ボロ衣を纏った俺が瞳の奥にいる気がした。
「そうか。そういうことか」
彼は勝手に一人で納得したかのようにすると、俺に話しかけてきた。
「君、歩けるかい。とりあえず一緒に暖かい場所に行かないか」

9年前。
「お誕生日おめでとう。」
そう言っておじさんは俺に紙で包まれた箱を渡してきた。
え?俺の誕生日…?そうだったっけ?
「なんで知ってるの」と俺は聞き返す。
「おかしなこというな。去年、お前が私に教えてくれたじゃないか」とおじさんは言う。
え?え?と俺は頭をひねらせて去年の事を思い出そうと記憶を辿った。
ちょうど、俺とおじさんが出会った夜のことだ。
おじさんと俺は雪のなかどうにか移動して、無人の廃屋に忍び込んで夜を過ごした。
おじさんはポケットからマッチを取り出し、落ちていたゴミや木片を集めて燃やし、それで暖を取ったなぁ。
隙間風がなるべく入らないようにするため二人で力を合わせて窓や隙間を閉じると、なかなか快適になったのを覚えている。
体を動かしたら頭が冴えてきて、しばらく談笑をした。そこで俺は何気なく「今日は誕生日なんだ」と、確かに言った。
優しくしようと近づいて来てくれる大人たちには必ず言っていた「便利な文句」だ。
これを言うと大抵の大人は奮発して美味しいものとかをご馳走してくれた。
「なんだと、そうだったのか。」と、おじさんは小さく笑いながらポケットをまさぐると荷物を取り出し、そこからハンカチでくるんであったクラッカーを2枚くれた。
これっぽっちしかなくて、ごめんな。とおじさんは苦笑していた。
俺は「暖を取らせてくれただけでもすごくありがたいよ」みたいなことを言って、クラッカーを一枚おじさんに渡し、お互いそれを晩飯にして眠ったことを思い出した。
「あれからもう一年経ったんだ」色々とあったし、あんまり日数を気にしたことがなかったから意外だった。
「そうだよ。ほら、プレゼント」そういってもう一度おじさんは箱を差し出してきた。おじさんは片手で持っていたが、俺の場合は両手じゃなきゃ支えきれない。なかなかにずっしりしている。
開けさせるなら紙で包まなくてもいいのにと思いつつも、少し前まで俺は贈り物を受け取った子供が包み紙を楽しそうにビリビリ破く姿に憧れを抱いたりもしていたから、自分とは難儀なものだ。
中には俺の大好きな干しブドウのパンが一斤入っていた。
「すげえ!こんなに大きい!いいの!?」俺は自分でもわかるくらい目をまんまるにして驚いた。
「せっかくの誕生日なんだから、ごちそうをな」とおじさんは笑顔で言う。
今の俺とおじさんは、あの日の夜以降から一緒に行動をしていた。お互い働いて日銭を稼ぎ、同じものを食べて、同じ場所で眠った。やがておじさんは持ち前の知恵を働かせて仕事や資金のやりくりに工夫をこらして、どうにかさびれたアパルトマンで部屋を借りて暮らせるようにまでなった。
おじさんは今の暮らしに満足するどころか、もっと裕福な生活をしようと考えているようだ。
俺ときたら、一年前と大きく変わった現状に大分満足していた。これまでも同じような境遇の子供などと仕事や宿を共にしたことはあったが一年以上共にいたことはなかった。
これからも、色々と教えてくれるこのおじさんと一緒にいられたらいいなと思っている。
それくらい俺にとってこの唐突に現れたおじさんの存在は大きいものになっていた。
俺は箱の中からパンを取り出す。箱。匣…。
そういえば、あの匣。一番最初に出会ったときにおじさんが持ってたあの匣のことを思い出した。
「なぁ、おじさん。あの匣どうしたんだ?初めて俺と会った時、変な匣持ってたじゃんか」何気ないように問う。
「ああ。あれか。お前と出会った次の日に質屋に売ってそれきりだよ。あんまり高く売れなかったけどね。」何気ないように返される。
そっか、とまた何気ないように返事をした。
一年前のあの夜、俺が眠りにつく直前まで、おじさんはあの匣を大事そうに持って、いろいろと観察していたのに。次の日には売ったと言う。
匣。あの奇妙な匣は一体なんだったのか。

6年前。
今年も雪が降った。灰色の空をちらちらと風に吹かれて柔らかな雪が地上に降り注がれている。
俺は「ただいま」と言いながら家の扉を開けた。
「おかえりなさい」と弟と妹たちの元気な声が返ってきた。
明るい返事を聞くと、今日一日の仕事の疲れが少しだけ和らぐように感じた。
靴を玄関で脱ぎ、コートの雪を払っていると一番年下の妹は廊下を駆けてきて勢いよく俺の胸元に飛び込んできた。
「お誕生日おめでとう!」にっこりと笑って俺にぎゅううと力いっぱい抱き着く彼女の背丈は俺の半分以下だ。
「あ、そうか。そういえばそうだったね。ありがとう」俺は片手で妹の体重を支えるともう片方の手で頭を撫でた。
「あ、ずるい」「僕もだっこしてよ」と、ほかの弟たちも玄関に集まってきた。玄関が子供たちの声で賑やかになる。
「こら、みんな。お兄ちゃんが困っているだろう。はやく食事の席に戻りなさい。」といって、おじさんもといお父さんが姿を現した。
はーい、とみんな素直に返事するとばらばらと来た道を戻っていく。
「ただいま、父さん。」と言うと、父さんは照れくさそうな顔をして「おかえり」と返してくれた。
あれからさらに資金を貯め、仕事もより給料の羽振りがいい職場を選ぶようになった父さんと俺は、しばらくするとアパルトマンを出て一軒家を借りるようになった。そして、父さんはその頃から家族を失くした子などを引き取って家族として迎え入れ始めた。それが今の弟と妹たちだ。二人っきりだった家は彼らのおかげで随分と明るく賑やかになった。
そして、弟と妹たちがみんなおじさんに慣れてきた頃。俺は思い切っておじさんの事を「父さん」と呼ぶことにしたのだ。
初めはそれはそれはとても驚かれたが、まんざらでもなさそうだった。
おじさんとは色々あった。口喧嘩だっていっぱいした。上手く資金繰りができなくてお互いに嫌気がさしたこともあった。それでもここまで二人でやってこれた。血も縁もなかったけれど、もう俺にとってこの人は父親以外の何者でもなかったのだ。
食卓には干しブドウのパンと生クリーム、あと鶏の丸焼きが載っていた。
随分と豪勢だ。子供たちも今か今かと食事の開始を待っている。
俺はさっさと席に座ると食事に対する感謝の言葉と祈りを手身近に済ませてみんなでごちそうを頂いた。
ろうそくの灯りが食卓をてらし、部屋の中はとても暖かくて明るい。
子供らがわいわいとご飯を食べていると、父さんが俺に誕生日プレゼントを渡してくれた。
相変わらず箱は包み紙に丁寧にくるまれている。俺は包み紙をびりびりと破って明けた。
中にはマフラーが入っていた。先日まで欲しいなと思っていたお店のマフラーだ。
「すごい。安くなかったでしょ」
「誕生日だからな」
父さんは数年前と変わらない笑顔をしてくれる。
「ありがとう」
俺も負けじと精いっぱいの笑顔を返す。
マフラーの入っていた箱を、背の後ろに置こうとした。箱。匣。
またあの匣のことを思い出す。
「父さん、最初に父さんが持っていたあの匣のこと、憶えているかな。結構奇妙な匣だったからさ、たまに思い出すんだよね。あれ、どこで手に入れたの」何気ないように訊く。
「ん。あれか。あれはな、たまたま拾ったんだよ。あまりにも変な匣だったからなんとなく持ち続けていたんだ。ただそれだけだよ」何気ないように返される。
そっか、と返事をした。
なんてことないように答えられたが、初めて出会ったあの夜、あんなにあの匣を不思議がっていたのは貴方だったのに。
匣。あの奇妙な匣は一体なんだったのか。

3年前。
「随分と大きくなったな」父さんが言う。
「まだまだ大きくなりたいから、今夜は美味しいものが食べたいな」軽口で返事をする。
「良いだろう。今日はご馳走だぞ」「ははは!誕生日って最高だなぁ」
一番最初に出会った日に口から飛び出た便利なあの文句は、すっかりこの初めて出会った日を特別な日に変えてくれた。
初めて出会った日以降、あの文句は使っていないけれど。
雪が降る中と俺は父さんと一緒に歩いていた。二人とも仕事の帰りだ。俺は父さんに習ったおかげで銀行員をやっている。父さんは持ち前の行動力と知識を生かして工場長だ。二人あわせればまぁまぁ良い感じの収入だ。
弟と妹たちを養うのは難しくなかったが、成長して落ち着いてきてくれてるおかげで苦労は少ない。
温かい我が家に早く帰りたい。
「干しブドウのパンが食べたいな。皆で分け合うんだ。」
「もちろんあるさ。他のは帰ってからのお楽しみだ」
父さんは俺の頭に手を置くと髪を乱させるようにわざとガシガシと荒く撫でた。
「髪の毛を整えるの大変だったんだが!」まんざらでもなさそうに俺は笑いながらやめろという。
「もうすぐ家なんだから良いだろう。あ、そうだ。家に着く前にこれを渡しておこう。」
そう言って父さんは懐からきれいな紙に包まれた箱を取り出した。
「去年は子供たちが勝手に開けてしまって、お前は拗ねただろう。」
「恥ずかしいな。気遣ってくれて、ありがとう」そう言って俺は箱を受け取る。去年は子供っぽいところが抜けてないのを自覚してしまって本当に恥ずかしかったのだ。早く大人になりたい。
俺は箱を眺める。懐に隠せるくらいの大きさだ。始めてもらったパンの箱に比べると小さいが、大きさなんて関係ない。開けるまでのわくわく感を、毎年楽しみにしてしまっている。こういうところもまだ子供っぽいと思われるかもしれないが、楽しみを減らすくらいならいつまでも子供心は大切にしたいと思う。
箱。匣。またあの匣のことを思い出す。
「父さんは、なんであんな変な匣をもって俺の前に現れたんだ?なんでそんなに頭がいいのに、お金をほとんどもってない状態だったんだ?」
「唐突だな」
「毎年、この日に箱を見るとどうしてもあの匣の事を思い出してしまうんだ。」
ふむ、と言って父さんは少し考えてから話を始めた。
何でなんだろうな。何と言えばいいのかわからないが、正直に言うと、突然あの場所に私は導かれたんだよ。あそこに現れる前には、ここと同じように何らかの仕事に就いていたんだ。だがあの夜に突然あの場所に導かれたしまった。唐突過ぎて、自分でも何も用意ができなかった。だから銭がなかったのさ。匣はその時、ちょうど持っていた。それだけさ。
「なんだそりゃ」と正直な感想を言った。
「そう思うよなぁ」父さんはけらけらと笑って答えた。
ほら、家にについたよ。皆とご飯を食べよう。と父さんは朗らかに笑って家の扉を開ける。雪に染められ無彩色の景色の中、家から漏れてくる暖色の灯りが俺の前を照らした。そうだ。早く暖をとって今日の疲れを癒そう。家に入って、扉を閉めた。扉についた窓から外を見る。通りに並ぶ家々からも暖色の灯りが漏れていた。父さんに会うまではこんなに豊かに暮らせる日が来るなんて思わなかったな、と思いながら、ふと玄関の前の俺と父さんの足跡に目を向けた。
そういえば初めて出会った日。初めて出会った父さんの周りには俺以外の人の足跡がなかったな。父さんが歩いて来たなら、父さんの足跡もあるはずだったのに。
あまりにもおかしいからきっと俺の記憶が間違っているんだろう。

1年前。
「お誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう。」
今日は随分と久しぶりに父さんと二人きりでの誕生日だ。
弟や妹たちは遠い寄宿学校へ行った。いくら俺の誕生日といえど祝日でもないただの平日なので必然的にこうなった。
食卓には干しブドウのパンとか鶏肉のステーキとかシチューとかもう色々載っていた。全部外で買ってきたものだ。
「せっかくの誕生日だからな、大盤振る舞いさ」
毎年この日は財布の紐をお互いに緩くして食べたい物を遠慮なく買って一緒に食べるようになっていた。
しかし、買い過ぎじゃないかな。つい間違えて弟と妹たちの分まで買っちゃった気がするな。まぁ、すぐ悪くなるようなものばかりじゃないから。明日も食べればいいか。
そう思っていると、父さんが「はい」と誕生日プレゼントを渡してきた。
なんだかんだ、これが一番の楽しみになってしまっている。包み紙を破いて中を開けると、帽子が出てきた。欲しかった帽子だ。
「よく俺が欲しいと思っていたものがわかるよね」
「そりゃあれだけ欲しそうな目で眺めているのを見たらなぁ」
嬉しいけどなんか少し恥ずかしいな。
食事への感謝の祈りもそこそこに、二人でさっさと食事を始める。
パンを齧りながら、俺は帽子の入っていた箱を眺めていた。箱。匣…。
「お前はあの匣の話を覚えているか」唐突に父さんが俺に声をかける。箱を眺めた俺を見て気になったのだろう。しかしまさか父さんから話を切り出すと思わなかったから俺は驚いた。
「うん。覚えてる。毎年この日になると一層思い出すんだ。でも、ただの匣だっただろう?」
俺がそう返事をすると、父さんは話始めた。
……お前は、運命を信じるか。私は信じていなかった。
あの匣を開けるまでは。
あの匣は、実は運命の匣だったんだ。何気ない瞬間に、ただ本当に拾って手に入れただけの変な匣だ。だが、今は運命というのは全てそういうものなんだと思う。いつだって運命は、不意に、唐突にやってくるんだ。きっかけがあっても、その瞬間がくるまで気づけない。あの日ほとんど文無しだったのは、その運命が突然に訪れたからだ。
私は、あの匣を開けた。そうしたら一瞬であの場所に移動したのだ。
匣が私をここに導いた。
匣を開ける前に、用意ができたら良かったのかもしれない。
でも考えるより先に開けてしまったからそれはできなかった。
匣との出会いに何者かの意図を感じたこともあった。過ごしてきた時代も環境も以前とはあまりにも違っていたから、時にはあまりの理不尽さに残酷すぎると思うこともあった。だが自分で自分を不幸だと思ったら、それこそ運命の残酷さから抜け出せないと思った。だから私は自分で自分を幸せにするためにも、運命を受け入れた。
匣は一度私に運命を押し付けたらその役目を終えたかのように本当にただの箱に変わってしまった。だから、捨てた。
とにかく、それがあの匣の正体だ。
父さんはひとしきり言葉を吐き出し終わると、水を口の中に流し込んだ。
俺はあまりの情報量に圧倒されてしまい、じばらく茫然としつつもその話をどうにか受け入れようとした。今の話が本当ならこういうことだ。
「父さんはあの匣のせいでこの場所に突然飛ばされたってこと?」
「そういうことだ」
「ひどすぎるんじゃないか」
目の前のご馳走から色彩も香りも消え、食欲が一気に失せた。手に取ったブドウパンを食べる手も止まる。その話が本当だとしたら…。
「そんなの、あんまりだ。だって、父さんは前の場所にきっと家族とか友人とかいたんだろう?それを全て失ったんだ。ひどすぎる」
「でも、お前と出会えたよ」
俺は言葉を失ってしまった。あの夜。あのまま9年前にあの場所に居続けていたら、俺はきっと凍死していただろう。死を覚悟した瞬間はたしかにあったのだ。でも父さんがいたからそうはならなかった。
「さっきも言ったが、残酷だと思うことがあった。それでも受け入れることができたのは、お前がいたからだよ。…やれやれ、やっと誰かに言えた。」
誠実な父さんだから、きっと嘘じゃないんだろう。俺はまた食事の手を進め始めた。
こんなに複雑な心境の誕生日は初めてだ。
父さんは鶏肉を飲み込むと、「お誕生日おめでとう」と言ってくれた。
「うん。ありがとう」

今年。
雪が降る夜、商店街を歩いていた。祝日と誕生日が重なったから、今日は家に弟と妹たちもいる。今年は賑やかな誕生日になる。楽しみだ。
俺は街灯とショーウィンドウが並ぶ道を歩いていた。たまに出店もある。帰路につくついでに眺めていると、あるものを見つけた。
匣だ。
あの匣だ。間違いない。あの奇妙な飾り。
雑貨に混じってものすごく安い価格で叩き売りされていた。
俺は迷わず小銭を出して匣を買った。
もしこの匣の話が本当なら、父さんを元居た場所に返せるかもしれない。
父さんの元居た場所…いや世界の話を去年聞いた。
ここと限りなく似ているが、とてつもなくかけ離れた場所だ。
地図上にもない。おそらく時代も違う。およそ想像上のもののようにも思えてしまうような場所から、父さんは来たらしい。
ならば、父さんを元居た場所に返してあげたいと思う。
前の家族や友達が間違いなくいたはずだ。今の俺や弟や妹のような存在がいたはずだ。助けを求める声には必ず応えてきた彼のことだ、絶対にいる。その彼らがあまりにも可哀そうだ。
家の扉を開ける。もはや見慣れた玄関の光景がみえる。
俺の大好きな温かい暖色の光だ。コートの雪を払っていると、部屋の奥から父さんと弟たちが迎えにでてきた。
俺は匣をふところから取り出して父さんに見せようとした。
「父さん、見てくれ。これ。ついさっき、そこ、で…」父さんに匣のことを伝えようとしたら、匣が微かに震えた気がした。
匣が空気を振動させて、俺の鼓膜を響かせる。
「たすけて…」
確かに聞こえた。匣の中で誰かが助けを求めている。消え入りそうな声だった。
とっさに俺は匣を開いた。考える隙などなかった。一刻の猶予もないように感じたからだ。
中を覗く。
匣の中は暗かった。ただただ暗くて何も見えなかった。
頬を水が滴るような感触がした。
顔を上げると、俺は家の中にいなかった。
ここはどこだ?
雪もない。あるのは水。雨だ。雨が降っている。周りを見渡してみると、どうやらここはゴミ捨て場のようだ。
周りの建物はレンガ造りだ。見たことがない景色。知らない場所。
全てが唐突すぎて、茫然と俺はそこに立ち尽くしていた。
苦しくなってきた。視界が暗くなる。まるであの匣の中のように。
頭の中が混乱でいっぱいになりはじめたと思ったら、すぐそこで物音がした。
反射的にそっちの方に顔を向けると、痩せた子供いた。
その子供を視認して、初めて自分が息をしていなかったことに気づいた。唐突に肺に空気を送り込んだせいで少しだけむせ返る。
子供は怯えた目で俺を見ていた。ボロボロの衣をまとっているさまは、いつかの俺のようだ。
「そ、そうか。そういうことか」
瞬間、すべてを理解した。この匣は、たしかに運命の匣だったんだろう。
目の前に子供がいる。やるべき事はひとつだ。
「君、歩けるか?とりあえず一緒に暖かい場所に行こう」
子供に向けて手を出すと、素直に手を伸ばしてしっかりと掴みかえしてくれた。
その子供と目があった。子供の目には男が映っている。瞳の奥には奇妙な匣を持った、決意に満ちた男だった。

運命はいつだって理不尽で、唐突だ。あの匣は運命そのものだ。
だから匣を捨てた。あの子の手に渡らないように。だが結局開けたのはあの子だった。
あの子は行ってしまった。やがてあの子も向こう側で気づくだろう。
「あの子はきっと大丈夫だ。私は教えられることは全部教えたのだから」

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