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『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』を読んで。


どうも、桜井です。

最近、ライティングの仕事が増えていることから「そういえばライティングについて体系的に学んでいないな」と感じ、ぴったりな本がある!と本書を手に取って読んでみました。

私なりに心に残った箇所を備忘録として書き残しておきたいと思います。


原稿を編集するのは、ライターの仕事

(P11)出版の世界には、「編集者」という職業がある。きっとそのせいだろう、執筆と編集を切り離して考えるライターは多い。原稿を書くのはライターの仕事。もらった原稿を編集するのはーーーあるいは、どんな流れで書くのかあらかじめ指示を与えるのはーーー編集者の仕事。そう考えるライターたちだ。

しかし、この認識はまったく間違っている。原稿を編集するのは、ライターの仕事だ。
(P32)ライターが、これまで以上に「編集」に踏み込んでいくしかない。編集者の育成・養成は、われわれライターの感知できる範囲にない話だ。

おそらく、いまウェブを主戦場としながら人気を集めているライターたちは、文章力以上に「編集力」の確かさで支持を得ている。今後、ライターと編集者はますますあいまい担っていくだろう。

私はこれまでライターの仕事を、ライター=「書く仕事」だと認識したことはありませんでした。また私自身、世の中に「書く人」はたくさんいるけど、「書ける人」は少ないなぁとも思っていました。私の中での書ける人というのは、「編集できる人」ということなんだと改めて言語化ができたように思います。

ライターは編集(ディレクション)してはじめてライターと言える、というわけですね。


コンテンツのパッケージを編集する

(P12)ではコンテンツのパッケージとはなにか。簡単にいえば、「人」と「テーマ」と「スタイル」の3つだ。つまり、「誰が(人)」「なにを(テーマ)」「どう語るか(スタイル)」のパッケージを設計していくのが、編集者の最も大切な仕事なのである。

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この図を見て、まさにマーケティングそのものじゃん!と思いました。

「誰が(人)」「なにを(テーマ)」「どう語るか(スタイル)」。文章を誰に読んでもらいたいのか?どんなテーマなら興味を持ってもらえるのか?具体的にどんな構成・文体・ストーリーで伝えていくのか?を考えることこそ、書くことの本質なのだと改めて知ることができた。

私はライティングの勉強を今まで一度もしたことがないけれど、文章を書いているのは、文章はマーケティングと同じ思考プロセスを経ていたからだということなんですね。ブレイクスルーの瞬間でした。


(P59)ライターに必要なのは、情報を「キャッチ」する力ではない。そんなものは検索エンジンにでも任せておけばいい。能動的に読むとは、情報を「ジャッジ」することだ。自分なりの仮説を立てていくことだ。

まずは対象を、じっくりと「観察」すること。そして観察によって得られた情報から「推論」を重ねていくこと。直感で判断せず、かならず理を伴った推論を展開していくこと。さらに推論の結果として、自分なりの「仮説」を立てること。こうに違いない、と思えるところまで考えを進めること。

ここもマーケティングとまったく同じで、マーケティングも事実(情報の羅列)には何の価値もない。大切なのは情報をどう切り取り、解釈し、仮説を立てていくか?自分なりの仮説を立てることが大切であると思います。

ライターも同じで、ただ情報を仕入れるだけではなく、情報の要不要をジャッジし、深掘りしていくことが求められる。やはりまったく同じです。


「人生を変えた一冊」は「世界でいちばん素晴らしい小説」ではない。

(P80)座右の書とは、その人にとっての「人生を変えた一冊」だ。たとえば、20代前半のぼくが『カラマーゾフの兄弟』という座右の書に出会えたのは、同作が「世界でいちばん素晴らしい小説」だったからではない。問題はどんな本を読んだかではなく、そのときの自分がどんな人間であったのか、なのだ。
(P80)20代前半のぼくは「人生を変える準備」ができていた。いくらでも人生をーーーその価値観をーーー揺さぶり、更新してやろうと待ちかまえていた。それだからこそ、あの本が座右の書になった。人生を変える一冊に、なってくれた。
(P80)一冊の本を通じて、人生を変える勇気があるか。これまで自分が受け入れてきた常識や価値観を、ひっくり返す勇気があるか。これまでの自分を全否定して、あたらしい自分に生まれ変わるつもりがあるか。読書体力の低下とは、体力の減退である以前に、「変わる気=心の可塑性」の低下なのだ。こころのどこかで変わることを恐れているから、ラクな本にしか手が伸びないし、良書を読んでも「座右の書」になりえないのだ。

私が20歳くらいのときに読んだ「風の歌を聴け」。この本が私の人生を変えた一冊。気づけば夢中で読み、一晩で読み終えてしまった。しかし30半ばの私がいま、この本を読んでも同じような感動を得られたか?というと結構難しいと思っています。

20歳前後の私ははやく何者かになりたくて焦っていました。地位も名誉もお金も何もないただの大学生だった私は、村上春樹の美しい文章を読んで、誰かを意識して競争することをやめようと決心することができたことを覚えています。

「人生を変える、準備ができているか?」この問いはとても大きいけれど、いくつになっても人生を変える準備は怠らないようにしていきたいと思います。

10年間のサラリーマン生活を経て、今年独立をした私も、人生の岐路を少しだけ変える決心をしたので、今でもたまに村上春樹の小説を引っ張り出して読んでいます。


3つの「きく」

(P89)オーラル・コミュニケーションの分野でしばしば言われるように、日本語の「きく」は、大きく3つに分類される。

ひとつは、一般的な「聞く」。英語だとhearのニュアンスに近い。続いて、相手の声にじっと耳を傾ける「聴く」。英語で言えばlistenである。最後のひとつが、相手に問いかける「訊く」。こちらは英語でaskとなる。
(P89)たとえば窓の外から不意に物音が聞こえたとき、英語ではhearが使われる。そして好きな音楽を聴くとき、相手の話に耳を傾けるとき、英語ではlistenが使われる。両者の違いは「能動性」だ。積極的に、みずからの意思で、その音や声に耳を傾け、そこに込められた意味までもつかもうとしたとき、受動の「聞く」は能動の「聴く」に変わる。
(P110)言わされたわけでもないのに、思わず溢れてしまったひと言。雑談のなかで交わされた、なにげない相づち。訊かれてはじめてことばにした、こころのどこかでずっと思っていたこと。本音とは本来、そういうものであるはずだ。つまり、策を弄して「引き出す」ものではなく、リラックスした会話の中でこぼれ落ち、それを「拾う」ものであるはずだ。

「きく(聞く・聴く・訊く)」だけでも3つのアクションがあるのか、と勉強になりました。

意図的に使い分けていたわけではないけれど、いま、どんな「きく」が求められているのか?自分はどの立ち振る舞いをするのが適切なのか?については聞き手の立場のときに意識していきたい。それは文章を書くときだけではなく、人と対話するときすべてに共通する意識だと思っています。


素材の「撮れ高」ばかり気にするな

(P100)もしもあなたが「評価する人」として現場に臨み、素材の「撮れ高」ばかりに気にしていたら、コミュニケーションはうまくいかないだろう。
(P101)取材中、原稿の「撮れ高」ばかりを考えているあなたは、取材者としていちばん大切な敬意を失っている。相手の話をまともに聴こうとせず、すべての発言を「使えるか/使えないか」の目で評価し、相手をモノのようにみている。このうえなく傲慢で、自分勝手な人間に成り下がっている。

たとえそれで原稿が書けたとしても、出来上がるのは「模範回答をまとめたコンテンツ」でしかない。そこに「その人」がいる必然のない、きわめて匿名的なコンテンツだ。

ここが一番ドキッとしました。笑

最近取材を行うことが最近多いのですが、まさにいまの私の脳みそは「撮れ高」で汚染されていたな・・・ととても反省しています。

コンテンツをつくる立場として、「消費者・読み手がどんなものを読みたいのか?」を考えることは正しいと思うのですが、それを取材する相手に強要、または誘導するのは違うな、、と思っています。

自分なりの仮説を持って取材に臨むことは大切なのですが、その仮説を押し付けたりシナリオ通りに進めようとすることがあるため、気をつけないとだめだなぁと自戒になりました。自分のシナリオを外れたとしても、新たな発見として好奇心に変えていくくらいの気概を持っていきたい。そのためには時間的な余裕であり、精神的な余裕を持つことだな、と改めて感じました。

時間的・精神的ともにコントロールできる自分の知見・スキル・センスを高めて、キャパシティを広げていこうと思っています。


わかりにくい文章が生まれる理由

(P121)ライターは、「自分のあたまでわかったこと」しか書いてはいけない。これは、どんなに声を大きくして訴えても足りないくらいに大切な、基本原則だ。
(P122)わかりにくい文章とは、書き手自身が「わかっていない」文章なのだ。テクニックの問題ではない。語られている内容の難しさも関係ない。わからないことを、わからないままに書いたから、わかりにくい文章になっている。取材者(ライター)の文章にかぎって言えば、それだけの話だ。

これはライターに限らず「すべての書き手(または話し手)」に言えることからもしれない。本質的に理解をしていないことをアウトプットしても、それは出来の悪い、わかりにくい文章になってしまいます。

私が昔聞いた話に、「話がわかりにくい人の共通点」として、

・物事の本質がわかっていない人
・本音を語りたくない人
・単純にバカ

というのがとてもしっくりきています。

なぜ?を突き詰めて本質に迫ること、嘘をつかず誠実であること、を続けていれば誰でもわかりやすい文章を書くことができると信じているので、これからも続けていきたいと思っています。


論理的な文章は「主観と客観」の組み合わせ

(P177)論理的にということばには、ひたすら理屈をこねくりまわすような印象があるかもしれない。しかしその認識は、間違っている。論理的な文章の基本構造は、主観と客観の組み合わせ、それだけだ。コインの表側に主観があり、裏側に客観がある。主観だけで語らず、客観(ファクト)の羅列に終始せず、主観と客観が分かちがたいものとして結びついている。それが論理的な文章の正体だ。

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ロジカルシンキングにも通ずるところがあるな、と思って読んでいました。「事実+理由(根拠)+主張(意見・仮説)」はセットでなければならない。

事実だけでは「So What」となり、主張だけでは「RTB(Reason to believe)」がなく心許ないアウトプットとなる。

これはコミュニケーション術などのテクニック論ではなく、考える・伝える際に必要な原理原則だと思っています。


ライターは「語られていないこと」まで書いていいのか?

(P206)ライターは「語られていないこと」まで書いてしまってもいいのだろうか?そこまで踏み込むのはさすがに越権行為であり、ライターの創作ではないのか?
(P209)ライターとしてのぼくは、いつも「翻案」に踏み込み、「創作」にまで踏み込んでいく。論理の構築を含め、さまざまに手を加え、筆を加えていく。現場で「語られていないこと」も、原稿のなかで語っていく。しかしそれで取材した方から「自分はこんなこと言ってないぞ」とクレームがきたことは、まずない。「まさにこう言いたかったんだよ」と感謝される。それはぼくの筆力によるものではなく、取材者としての根気と自負がそうさせているのだと、自分では思っている。

ここも私自身、とても悩んでいました。「誇張しすぎていないだろうか?」「取材者が言わんとしていることはこうじゃないかな?」など悩みながら文章を整えています。

しかしライティングというのは「一種の創作(クリエイション)である」、と解釈してから悩むことをやめました。事実から翻案へ、そして創作へ踏み込んでいくくからこそ、解釈は必要であり、その解釈こそがライターの力量である、と。ライティングってクリエイティブな仕事なんですよね、本来。腑に落ちました。


コラムとエッセイはどう違うのか

(P309)新聞や雑誌の囲み記事としてなにかを表紙、論じている文章。それがコラムだ。「評し、論じる」という言いまわしからもわかるように、コラムは自分の外部にあるものーーー人物、モノ、事件、世相など、主に時事ネターーーをその対象とする。

コラムとは、「巻きこみ型の文章」だ。呼ばれていないのにぐいぐい首を突っ込み、対象をあれこれ評し、自説を論じる。
一方のエッセイには、「随筆」や「随想」の訳語ある。語義的に考えれば「随」とは自由気ままなさまを指す。つまり随筆は「自由気ままに筆録したもの」を指し、随想は「自由気ままに想うこと」を指す。

エッセイは、「巻きこまれ型の文章」だ。日常の些細な出来事に期せずして巻き込まれ、そこから生まれる「内面の変化」を軽妙に描いたものが、エッセイだ。
(P312)コラムについては、その(独善的な)切り口さえおもしろければ、ある程度成立する。毒舌が喜ばれることもあるし、「おれの掌論」を論じていけばいい。

(P314)わたしにはこう見える。わたしにはこう感じられる。そんな鋭敏な「わたしの感覚」に根ざして語られる文章が、感覚的文章であり、エッセイの基本だ。

コラムとエッセイの違い、とてもしっくりきました。そして私はコラムばかり書いているな、、とも感じました。笑

コラムは1つの事実から推察し、持論を論理的にまとめることで完成されると思っています。一方で、エッセイは巻き込まれた事象を観察して感覚と感情を乗せてアウトプットすること。

10代後半〜20代前半はmixiでエッセイばかり書いていたな、、(遠い目)。でもそれはまだ自分が何者でもない無名の若者だったからこそ、様々な事象を客観的に観察できたからこそ書けた文章だったかもしれません(読み返そうとは思いませんけど・・・)。

30代になって少しずつ仕事の領域が広がってきて、利害関係者も増えてきたからこそ、コラムが増えてきたけれど、たまにはエッセイでも書こうかな、と思えました。


コンテンツの賞味期限をどう考えるか

(P318)ドストエフスキーにかぎらず、古典とされる作品群を残した文豪たちは、先駆的だったわけでも進歩的だったわけでもなく、ただただ「普遍的」だったのだ。その作品が普遍性を帯びていたからこそ、いまを生きるわれわれにも突き刺さるし、刊行当時におおきな人気を博していたのだ。
(P318)100年前の読者をイメージしたのだ。100年前、つまり日本でいえば大正時代の読者が読んでも理解できるような、そしておもしろく感じてもらえるような本をイメージした。

コンテンツの賞味期限をどう捉えるか?ですが、本書では「普遍的であること」が賞味期限を伸ばす方法であると定義しています。

100年前、大正時代の人が読んでも「そうだよね」と思えるような思想・論理を文章にしていくことがとても大切だと学びました。

私は幕末、特に吉田松陰が大好きなのですが彼の思想は150年近く前だけど、令和の時代にでも(いや令和の時代だからこそ)共感できることが数多くあります。

私が学んでいるマーケティング・ブランディングにおいても普遍性のある学問であるため、これからも楽しんで学び続け、普遍性のあるコンテンツを生み出していきたいと思っています。

以上、最後までお読みいただきありがとうございました!


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