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「戦略プロフェッショナル」を読んで。

どうも、桜井です。

戦略プロフェッショナルを読んで、個人的に心に残った部分を書き残してみたいと思います。

三枝匡さんの名著はこちら↓


人情を盾に戦略的責任から逃げるな

トップにとって、人情、人としての魅力、包容力、そういった人間的側面は不可欠の課題である。しかし、それだけでは戦略的責任を果たすことはできない。いや、そのような人間的側面に頼って経営をしようとする人ほど、戦略的責任から逃げる傾向さえあるように見える。

位置No.538

私自身の実体験を交えても心当たりがたくさんありました。人情・人としての魅力があることに越したことはないのですが、よくないのはその「人間的側面」を盾にして戦略的な責任から逃れようとする人がとても多いように思います。

経営トップもしくは部門長・組織長のトップは戦略的責任を負っていると思っていますが、どうも他責感のあるトップもいる。経営者でもやれ「株主が・・・顧客が・・・消費者が・・・」と、さも自分の意思決定は他者によって操られているように話す人がいました。

人間的な魅力はそのままに、戦略的な責任から逃げずに向き合うことがとても大切だと思っています。


財務戦略やM&Aに逃げるな

米国企業の多くは、戦略論から出発して、財務戦略やM&Aの方向に走ってしまった。もし、彼らが同じ戦略論から、長期の競争力を強化するための製品開発戦略や生産性向上の方向に走っていたら、米国企業の国際競争力が落ち込むことはなかったと思う。

位置No.685

中小・零細企業の経営者と話しているとコンサル嫌いの方に出会います。「昔、こんなにお金をふんだくられた」などの悪態をついている人もいるくらい、恨みを持っていそうな人もいました。

そもそも双方合意の上で契約をしたのに、どうしてそんなに他責にしているんだろうと思っていて、もしかすると「コンサルに頼めばきっと業績が良くなる」と盲目的に考えてしまっていたのかな?とも感じていたのですが、↑の部分を読んでもう1つ可能性があるな、と思いました。

それは経営コンサルが「事業戦略やマーケティング戦略」のような売上・利益を伸長していくのではなく、「財務戦略やM&A」に舵をきること(コストを抑える・他の力で業績を伸ばす)で、自分たち会社・ブランドの地力を上げることを怠ってしまい、結果的に業績が伸び悩んでしまった背景があるのではないか、ということです。

財務やM&Aが悪いわけではありませんが、そもそもそれらは自分たちで稼ぐ力があることが前提にあると思っています。前提がないままにコスト圧縮したり、他所からリソースを引っ張ってきても、数年後同じような課題に直面することは目に見えているはず。しかしそれがわからなかった、ということかと思います。


政治性の強い組織には政治性で対抗するな

まず言っておくが、自分も政治性で対抗したら同じ穴のムジナになってしまう。あなたが頼りにする武器は、あくまで戦略的手法が生み出す力だ。客観的事実、抵抗者がぐうの音も出せないデータの裏づけ、明快な論理、正直で裏のない会話、社内よりも「競合と顧客」の論理、などに徹することが重要である。

位置No.1017

政治性の強い組織で働く対処法について言及されている文の抜粋ですが、頷きが止まりませんでした。

「この組織は政治力が必要だから」と言われたこともとても多くありましたが、ホントに政治力が必要なのかな?と感じることも同じくらい多くありました。

最も大切なのは戦略性であり、そこに社内の事情は不要で、市場と競合と顧客を見て論理的に議論することが大切だと思います。もし当たり前の議論ができないのであれば、客観的な事実・数字に基づきながら話し合いを進めてみる。うまくいっているなら続ける、ダメなら止める、という意思決定ができるよう、事実と数字に向き合い続けるしかないと思っています。


失敗を疑似体験しろ

結果がいい線まで行っても、それが当初の目標とか計画から外れていれば、それは失敗だと。つまり本人だけが失敗の疑似体験をしているわけです。

そうしたプロセスの繰り返しのなかから、今まで考えなかったことに気づく。それが新しく見えた因果律だ。それが、また次のより良い意思決定の布石となる。

カンは本来、経験の蓄積から出てくるものだが、しかし道筋を立てて考えるやり方(プランニング)を繰り返すことでカンの体得が加速され、ただ経験に頼る人よりもはるかにカンの冴えた経営者ができ上がるのである。

つまりカンと論理的なプランニングは、互いに矛盾するものではなく、相性の良い補完関係というわけだ。

位置No.1803

ここの言語化もそうだよなぁと感じたのですが、私も20代半ば〜後半の頃に上司や先輩に「とにかくたくさん動け・まず動け」「頭でっかちになるな」などと言われていたのですが、どうも腑に落ちませんでした(そしてなぜ腑に落ちなかったがここにすべて書かれていました)。

もちろん、動かなければ成功も失敗もないため、行動そのものを否定することではありませんが、まず深く考えて正確な仮説を立て、それを頭の中で何度もシミュレーションしてみる。その結果行動することで、最適解となる「一本の線」が出来上がる、といったイメージです。ただ闇雲に行動するだけではカンは育ちにくく、論理性とも離れた結果になる気がします。

行動の前に深く思考を繰り返すことが、カンを養うポイントではないかと思っています。


正しい戦略が正しい答えであるとは限らない

論理志向の強い人が正しい論理を積み上げて構築した戦略が、その企業にとって正しい答えであるとは限らない。大企業で、有名な経営戦略コンサルタントが高いお金をとって立案した戦略的事業計画を実現できずに、社の幹部たちがウンウン困り抜いているというケースを私はみている。逆説的な言い方だが、事業戦略作りがかえって事業展開を遅らせる要因になってしまうのだ。

位置No.2229

まさに図星!と唸ってしまいました。綺麗な戦略は経営戦略コンサルタントによってつくることはできるかと思います。ただ、その綺麗さに時間をかけていると実行のタイミングが遅れてしまい、いつまで経っても事業が展開できないこともあります。

先ほどの「思考を深める」ことと真逆のことを言っているようにも思うのですが、「最低限、どこまで考えれば良いのか」「これ以上は行動しながら考えるでOK」と言ったラインを持つことがとても大切だと感じるし、その勘所こそがカンと論理でつくり上げられるものだと思っています。


マーケティング戦略に営業スキルが必要なワケ

画期的な成果を収めるマーケティング戦略は、しばしば、営業マンのそれまでの常識や習性に逆らう内容を持っている。

新しい商品に対するマーケティング戦略は、ここの営業マンが思いつかないことを、営業のトップレベルで開発しなければならない。

位置No.2391

よく、営業とマーケティングは別モノなのか?という議論がありますが、結論、「営業ができないとマーケティング戦略はつくれない」ということなのかな、と思っています。

↓の記事の中でこのような記載があります。

営業経験のプレイスの話、コトラーのマーケティングマネージメントの4Pでは、対面セールスと書かれているんです。そこを理解せずに営業はマーケティングじゃないと分けちゃう。

アジェンダノート記事より抜粋

コトラー先生の4P、place(販路)には「対面セールス」が入っている。つまり売る手段として営業は有効であり、「どうすれば売れるか?」「(営業が)売ってくれるようになるにはどうすべきか?」はポイントになると思っています。

となると、マーケティング戦略は営業の気持ちに立ち、なおかつ営業が思いつかないような営業戦略を考えなければならないという命題を持っているともいえるかもしれません。これはマーケターも一緒で、営業ができないマーケターは売れる仕組みを作れないし、業績を上向かせることはできないともいえるかと思います。


効果がない施策はなぜ生まれるのか

私の今までの経験では、セグメンテーションの手法を導入したのに効果が出なかったという場合、セグメンテーションの組み立てが悪かったというよりは、それを組織の末端が忠実に実行したのかどうか、実はよくわからないというケースが圧倒的に多い。

位置No.2732

立案する力よりも、実行する力の方が大切ではないか、という議論ですね。この言葉を聞くとマークザッカーバーグの↓の言葉を思い出します。

Facebook創始者 マーク・ザッカーバーグの言葉

仮説があっているかどうか?業績に結びついているかどうか?はまずやりきった後に議論されるべきことであり、「完璧にやるよりもまず終わらせてくれ」というのが戦略立案者の本音なのではないかと思います。

実行管理する立場としては、「やり切る、とは具体的にどこまでを指すか?定量数値はどこか?」「やりきった後、どんな状態になっていれば良いのか?」を示してあげることが大切だと思っています。


日本の経営者として成功するために必要なこと

日本で経営者として成功するためには、戦略性とリーダーシップだけでは、まだ足りないようだ。トップとしての人間性、包容力、あるいは、何か「男の愛敬」みたいなものがないと、日本では人の上に立つことができない。

位置No.3128

個人的にとても課題に感じているのが、著者の三枝さんがおっしゃる「男の愛敬」のところ。戦略思考の高い人よりも人間性を強みにしている経営者の方が男の愛嬌を武器にできる気がするため、もう少し年齢と経験を重ねることで私自身も身につけたいと思っているところ。


修羅場の定義

修羅場とは、事態のコントロールが自分の手から離れ、他人の思惑、損得、保身、嫌悪の感情などに愚弄され、自分の立場が脅かされて精神的に追い詰められる状態を指します。修羅場では論理性は大幅に無力化され、感情が支配します。つまり、戦略系ではなく人間系の事件なのです。

位置No.3492

私は幸運なことに10数年の社会人生活の中で修羅場を経験できました(あくまで相対的に、ですが)。

「今日売上が伸びなかったら帰ってくるなよ」的なパワハラはありましたし、行動ではなく人格否定、上司のご機嫌取りで昇給する謎の評価基準、上司の感情を逆撫でしたら実績関係なく権限を剥奪され評価を下げられるような環境に身を置くことができました。

正しい戦略を実行しようとしても、そのためにどれだけ自学をしたとしても決して評価されることはありませんでした。

よく環境は「我慢する」か「環境を自分が変える」か「その場から出て行く」かと言われますが、私は出て行くことを選びました。

その辺りの話は↓に書いています。

修羅場を乗り越えるためには戦略だけでは足りない、ということを身をもって知った立場として人間のナラティブに向き合うスキル・教養をもっと身につけていきたいと感じている今日このごろです。


リスク志向を持て

その「リスク志向」はどこから来るのかといえば、それを支えるのも熱い心ですが、ここでの新たなキーワードは長期的な「野心」や「志」です。人間を貫いて追いかけていく、自分のこだわりです。それは、自分のしたい仕事ができていないことに焦燥感を募らせ、何とかして現状を打破しようと必死にもがき続ける人です。

位置No.3438

三枝さんは、リスクを取れる人は「野心」や「志」を持っていると形容されています。森岡毅さんは「欲を持ってほしい」と言っていました。私も日々、自分の実力不足に嘆いています。そのため、知識・教養をインプットして実戦機会で試すことを続けていきたいと強く感じました。

以上、最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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