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平野啓一郎『本心』 他者の「本心」に到達することの困難さ

『本心』は、“自由死”が許可された近未来を舞台に、平野啓一郎がAIをモチーフに挑んだ新たなる境地である。貧困、格差社会、メタバース、テロといった現代社会のアクチュアルな問題が、小説でも重要なモチーフとして繰り返し強調される。近未来でありながら「現代社会」であるかのような全く違和感のない世界観が構築されて、作者の独自の思想が展開されている。

“自由死”を選択した母の「本心」を巡る「分人」の変化

「お母さん、もう十分生きたから、そろそろって思っているの。」
石川朔也は七十歳前の母から“自由死”の認可を得たことを打ち明けられ、ひどく狼狽し、撤回を試みようと全力で説得にあたる。しかし母の揺るぎない意思は朔也の言葉に全く耳を貸さない。だが母は、朔也の上海出張中に事故死してしまい、なぜ母が“自由死”を選んだのかは永遠の謎のままになってしまう。

母の「本心」は何だったのか?

朔也は母の死による寂寥感と孤独感を埋め合わせるために、株式会社フィディテクスに母のVF(ヴァーチャル・フィギュア)制作を依頼し、〈母〉とのコミュニケーションを試みる。目指すのは、母の発した「もう十分」という言葉の本心に到達することだ。

朔也は、母と生前に交流があった人たちを訪ね歩いて、探偵のように母の本心を聞き出そう奮闘する。主治医の冨田医師からは経済的な側面から母が自由死を選んだことを示唆され、母が生前働いていた旅館の元同僚三好との出会いからルームシェアして生活するようになり、朔也の人生は大きく変化していく。

朔也はコンビニで店員をクレーマーから身を挺して救った動画の公開から一躍ヒーローになり、それがきっかけで、アバターのスター的デザイナー、イフィーの元で働くことになる。ヘッドセットを装着し、顧客の要望に応えて動く非正規雇用の「リアル・アバター」として生計を立てていた朔也の収入は大きく飛躍し、「あっち側」への人間にワープする。

イフィーのファンである三好をめぐる三角関係、母の愛人と推測される小説家藤原亮治との交流から、父の不在という自分の出自への疑問など、激動の変化のなかで、朔也は少しずつ〈母〉への関心が薄れていくのを感じるようになる。

僕が日常の中で経験する様々なことを、誰かに聞いてもらいたいと思った時、真っ先に思い浮かべる顔は、いつの間にか三好やイフィーになっていた。・・・中略・・・
〈母〉だけでなく、母そのものが、僕の中で遠くなっていきつつある。
 それは自然なことなのだろうか?人の死を、皆が平凡なこととして受け流してしまうのは、このせいなのだろうか? そして僕は、そのことを喜ぶべきなのだろうか?……

平野啓一郎『本心』p.277

他者という死の恐怖と悲しみ

死の恐怖とは、自分自身の死への恐怖だけを意味するわけではない。愛する身近な人の死もまた、自分の死よりも耐えがたいほどの恐怖と喪失感を伴う。それは、単にいつもいた人が物理的に存在しない、というだけでなく、その人が生前に抱いていた思いや愛、そして「本心」を永久に知ることができなくなってしまう不可逆な唯一性に愕然として、精神が持ちこたえられないほどの悲しみに包まれるからだ。

だが、その悲しみは永遠に続くわけではない。朔也はVFの〈母〉とのコミュニケーションを通して悲しみを緩和させようとした。母を巡る数多くの人との濃密な交流を経ることで、朔也の中で母が占める「分人」の割合が激減していった。「分人」の変化は、母を知る「他者」と出会うことが、自分という存在へのアイデンティティーの希求をもたらしたからである。その結果、母という一人の人間の人生に思いを馳せ、その母から生まれた自分という「存在」へと思いが回帰し、母が望んだ“自由死”への解釈が変化する。

僕があの時、“自由死”の希望を聞き容れていたなら、母は死ぬ前に、自ら僕の出産を巡る経緯を、話すつもりだったのかもしれない。それは、義務感からというよりも、ただ、聞いてもらいたかったからではあるまいか?他でもなく僕に!そして、僕が母の“自由死”の医師を、闇雲に拒絶することなく理解し、その話に耳を傾けていたなら、その時こそは、母は“自由死”の意思を翻していたではなかったか?……
 そうなのだろうか?――わからなかった。それを知っているのは、母だけだった。

平野啓一郎『本心』p,429

本心はどこまで理解できるのか?

VFの〈母〉は“自由死”の意味を理解していない。自分が知りたいことを〈母〉に根気強く学習させないことには、「本心」に到達できない。しかも、〈母〉の話す言葉が母と全く同じ「本心」を話しているかどうか(それがどんなにごく自然だったにしても)、判断を下すことができないのだ。

僕は、VFの〈母〉の自然な反応が、いつか僕の心を満たしてくれると期待していた。けれども、そこに根本的な間違いがあったのかも知れない。僕が本当に求めているのは、僕に対する、母の外向きの反応ではなかった。母の心の中の反応だった、母が、僕の言葉に触れて、何かを胸に感じるということ。僕の存在が、母という存在の奥深い場所に達して何かを引き起こすということ。――僕が今、どうしても欲しているもの、そして、もう決して手に入らないのは、その母の内なる心の反応だった!

平野啓一郎『本心』 pp.429~430

VFは100%生身の人間の代替になることができない。人が発する言葉が本心であろうがなかろうが、そのふるまい、仕種、口調、過去の経験などから真意を掴むことになる。だが、その言葉が「本心」かどうかを推し量ることは容易ではない。というのも、人間はたえず本心をさらけ出してコミュニケートしているわけではないからだ。状況に応じて、言葉をたえずコントロールしてその発する言葉を取捨選択し、相手を傷つけないように(あるいはあえて傷つけるような場合もあるが)バランスを保つように心がけるものだ。

だが、「本心」しか言葉で発せられない世界に生きるとしたら、それは本当に幸せな世界といえるのだろうか?それはコミュニケーションのユートピアという地獄に他ならないのではないか?

「本心」がわからないからこそ成立するコミュニケーションがある。逆に本心でしか成立し得ないコミュニケーションも確実に存在する。しかしながら、他者の「本心」は、推測の域を出ることがない。だが忘れてはならないのは、自分の「本心」もまた、他者のそれと同じくらいブラックボックスであることだ。「本心」は人と会うことや会話を介して、たえず変化し、自分の予想しえない地点へと到達することがある。時には知られざる自分の「本心」に翻弄されて、深い葛藤の森に迷い込むことになる。それでも人は言葉を介してコミュニケーションすることをやめることができない。

言葉への関心が未来への第一歩

言葉への関心、それは朔也が母から受け継いだ数少ない武器だ。朔也も、クレーマーから助けたコンビニ店員ティリもまた、言葉への関心の強さを意識しながら、あまりにも脆く不確かな、それでも希望あふれる未来への第一歩を踏み出す。その一歩が、読者を「甘美」な幸福に満たすのは間違いない。朔也の「その後」をいつか読んでみたい。

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