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能動と受動の境目はどこにあるのだろう?

今日は『植物は<未来>を知っている 9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』(著:ステファノ・マンクーゾ 他)から「化学的な調合」を読みました。

人が舌で辛さを知覚すると、辛さ(痛み)を抑制する物質エンドルフィンが脳内で放出される。ランニングしていると疲労を通り越して高揚感を覚える「ランナーズハイ」という状態に入ることがありますが、ランナーズハイ時もエンドルフィンが放出されているのでした。

トウガラシの辛さが病みつきになるのは、エンドルフィンの効果によるもので、脳の報酬系と呼ばれる神経系が刺激されている。植物が身を守るためには、他の生物を遠ざける性質を持つ化学物質を生成するほうが理にかなっていると思われるのに、なぜか惹きつける物質を生成しているわけです。

この表面的な矛盾は、生態学の領域では《麻薬 - 報酬のパラドックス》として知られている。だが、植物が製造する神経作用性の化合物は、動物に捕食されるのを防ぐための手段ではなく、動物を引き寄せ、操作する道具だという考えを受け入れるなら、パラドックスは解決できるだろう。

「パラドックス」とは「矛盾」のことです。最強の矛と最強の盾が衝突した時に何が起こるか。どちらかが壊れれば最強ではないことが明らかになり、両方が本当に最強であるならば、永遠に決着がつかない(証明できない)。辻つまが合っていないわけです。

辻褄が合うような説明の枠組みが見出されることで矛盾が解消されますが、矛盾を解消するような枠組みは、得てして枠組みの外からやってくるように思います。物事の捉え方を逆転させることも含まれるかもしれません。一筋縄ではいかないのですが…

この能力は、私たちが抱いている植物のイメージを根本から変えることになるだろう。つまり、植物は、動物を必要とする受動的で単純な存在であるというイメージから、ほかの生物の行動を操作する能力をそなえた複雑な生物であるというイメージへと。鮮やかな立場の逆転である。

「受動的な存在」を「能動的な存在」として捉え直すというのは、興味深いです。植物は「受動的な存在」という印象を抱いてしまうとすれば、それはなぜなのでしょう。

動物は自ら移動している様子が浮かんできますが、植物はそのような様子を思い描くのが難しいからでしょうか。「能動と受動の境目はどこにあるのだろう」と。そのようなことを思ったのでした。

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