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「上等ではない=下等」とはかぎらない

『利他とは何か?』を読み進めた流れで、昨日から『生活工芸の時代』を読み始めています。

『利他とは何か?』の中で民藝運動を起こされた方である柳宗悦さんが紹介されていましたが、そもそも「柳さんが起こした民藝運動とは何か?」という点について、あまり触れませんでした。

ということで、今日は「生活工芸の時代」の話題には入らず、柳宗悦さんの著書『民藝とは何か』を参照しつつ、民藝運動に触れてみたいと思います。

民藝運動については各所で論じられていますので、ここでは「日本民藝協会」による概略を引用します。

民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。そんな中、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。
そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示したのです。工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係しています。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らしました。
物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。

「物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求した」という言葉に民藝運動の目的が集約されていますね。

「では、より良い生活とは何か?」という問いが浮かんでくるわけですが、今回は深掘りせず、この先に持ち越します。

ここで注目したいのは「名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具にも、美術品に負けない美しさがある」という箇所です。

私は「美術品」という言葉を聞くと、どうしても整然と飾られた鑑賞対象としての作品や、クローズアップされる作り手の存在が意識に上ってきてしまいます。私の過去の経験に結びつく「美」という言葉には、どこか高尚で、主張的な印象がまとわりついているようですが、柳さんはこのような偏った印象に対して警鐘を鳴らして下さったのでしょう。

柳さんは著書『民藝とは何か』にて、次のような言葉を述べています。

しかし民藝品はごく普通のもの、いわゆる上等でないものを指すため、ひいては粗末なもの、下等なものという聯想を与えました。実際高級な品、すなわち上等品に対してこの言葉を用いる時が多いため、雑器など云うと侮蔑の意に転じています。つまらぬもの、やくざなもの、安ものを意味しています。このためか今日まで民藝品は工藝史の中に正当な位置を有つことができず、愛を以って顧みる者がほとんどなかったのです。
(『民藝とは何か』  柳宗悦 著/講談社学術文庫/2020年11月10日発行)

「民藝」という言葉が「歪んだ解釈」をされることに対して、柳さんは問題意識を持っていたことが伺えます。「上等ではない=下等」とはかぎらないということですね。

二項対立的な枠組みに囚われているかぎり、「民藝品」の美は見出せないということなのでしょう。「上下」という言葉はヒエラルキーを連想させることも一因かもしれません。

ですので、何かのありのままの美しさを直観しようとするときには「上下」「良し悪し」「好き嫌い」など、二項対立的な言葉を使うことから離れる事を離れることが必要なのかもしれません。言い換えれば「他と比較しない」ことが必要かもしれません。

また、柳さんは同書にて、次のようにも述べられています。

なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。それは一つに作る折の心の状態の差違によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人地に守られる高貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。
(『民藝とは何か』  柳宗悦 著/講談社学術文庫/2020年11月10日発行)

柳さんの深い精神性が語られていますが、注目したいのは「作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです」という箇所です。これは『利他とは何か』で触れられていた「利他をさまたげるものは作意」という言葉に通じるものです。

考えてみると、私たちは日常生活の中で他者との間に「必然」を見出そうとしているように思います。相手が求めるもの(=意識にのぼっているもの)を「必然」と読み替えて「ニーズを満たす」と表現してみたり。かたや、「私はこう思う」と主張し続けて、結果的に相手に押しつけてしまったり。
いずれも「作為・作意」ということなのかもしれません。

「ふつうの何か」に含まれる「美」を磨いてゆくこと。それこそが民藝運動なのかもしれない、と感じました。


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