見出し画像

呼吸する身体〜個別・具体的な私〜

朝、目が覚めて、呼吸をする。

呼吸が深く入る日もあれば、浅い日もある。

「なぜ呼吸の深さに違いが生まれるだろう?」と考えると、日々の過ごし方の違いや、一秒単位で身体が変化し続けていることに行き着きます。

過去の積み重ねが現在の自分につながっているわけですが、その積み重ねの全てを自分がコントロールしてきたわけではありません。だからこそ、呼吸の深さの違いを通して過去を振り返ることに意味が生まれると思います。

具体と抽象。個別と一般。

呼吸している「私」は個別・具体的で、一般的な私ではありません。

瞬間瞬間を注意深く観察すること。

何かを頭の中で思い描いた理想、一般像という「枠」に当てはめることが時に助けになる一方、それは細部を削ぎ落とすことでもあり妨げになることもある。

「神は細部に宿る」とは、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが残した言葉ですが、削ぎ落とされた「細部の集積」が個につながっていると思うと、「細部の変化に気づく繊細さ」が生命を下支えているのではないかと思うのです。

狩猟採集時代の終わり頃(今から三万〜四万年前)には呪術的な意味を込めたみごとな動物像が壁画に描かれています。つまり、今ここで考えようとしている、私とはなにか、私はどこからきてどこへ行くのかという問いにつながる精神的な活動や他の生物のもつ生命の意味を考える知的活動がすでにそこに見られるわけで、まさに彼らは単なる生物的なヒトであるだけでなく「人間」であったといえます。このようにして私たちの祖先は、現代風にいうなら、生物の多様性に関する知識、生物がもつ生命という共通性の認識、そしてその先にある「私」という存在への関心を抱いていたのです。

中村桂子『生命誌とは何か』

大急ぎで見てきた研究の流れの二十世紀に入る前の状態をまとめてみますと、(1)多様性よりも共通性、(2)生命から物質へ(機械論)、(3)観察より実験、という方向が明確に見えます。これがあったからこそ科学としての生物研究が急速に進展するのです。そしてこれは、産業革命を経て進歩を目指す社会の動きともかさなっているのに気づかれたと思います。ただ少し先走っていうなら、これが生命の本質を忘れた機械優先の社会につながり、それを取り戻すために生命誌を考えることになるのです。

中村桂子『生命誌とは何か』

いいなと思ったら応援しよう!