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「他者に心があると仮定する」ということ

今日は、岡ノ谷一夫(動物行動学者)による「『つながり』の進化生物学」の第4章「つながるために、思考するために - 心はひとりじゃ生まれなかった」から「「別の理由」から進化したもの」「他人の心は、いつからわかる?」という節を読みました。

テーマは「心の理論」について。一部を引用してみます。

これをもう一段進めてみると、他人に心があると仮定したほうが、他人の行動だけを見て人と付き合うより、うまくやっていけるでしょう。たとえば、昨日喧嘩したばかりの人を昼食に誘って、断られたとします。その場合、彼はお腹がすいていないんだな、と考えるより、昨日の喧嘩のことをまだ起こっていると考えられたほうが、相手の行動を予測できるはずです。その人の心の中には今の空腹感より、昨日の喧嘩のことがくすぶっていると仮定して対応したほうが、その人とうまく付き合っていける。
他人に心があると仮定して行動するという性質は、「心の理論(セオリー・オブ・マインド)」という名前で研究されています。では、人間が生まれてきて、他人に心があることを前提に行動しはじめるのは、何歳ぐらいだと思いますか。
これまでの研究では、子どもが、質問の意味を言葉で理解し、答えなければならなかった。でも、そもそも1, 2歳では、質問を理解することが難しいのです。そこで最近の研究では、視線の動きを計測する機械を使い、子どもの心の理論を調べています。サリーとアンの劇を見せながら視線の動きを計測すると、遅くとも1歳半には、心の理論にもとづいて劇を見ている、つまりアンが探すはずのカバンのほうを、箱よりも長い間見ているらしい。

「他人に心があると仮定して行動するという性質は、「心の理論(セオリー・オブ・マインド)」という名前で研究されています。」

「心の理論」という研究があることを初めて知りました。

「他人に心があると仮定して行動する」とはどういうことなのでしょうか。

著者は「同情」と「他者に心を感じること」は異なると述べます。

でも、同情と、他者に心を感じることは、分離するのは難しいけれど、異なると思う。だって、同情というのは、自分がああいう状態だったら嫌だろうな、というだけで、結局は自分の心の問題だからです。

他人に心があると仮定しているとすれば、それはどのように確かめることができるのでしょうか。本書では「サリーとアンの劇」の例が紹介されています。

この劇には、サリーとアンという2人の女の子が登場します。おもちゃで遊んでいたサリーが帰らなくてはならない時間になったので、カバンに入れて帰ります。アンはカバンからおもちゃを取り出して箱の中に入れます。

翌日、サリーがやってきておもちゃを探すとき、カバンの中を見るか、箱の中を見るか。どちらだと思いますか。

もし「カバン」と答えたならば、それは「サリーの心が分かる(というよりもこう思うに違いないと仮定している)」から、つまり「心の理論」をもっているから答えることができるのです。

他者の「心の仮定」が実際に正しいとすれば、コミュニケーションはとてもなめらかなものになるのでしょう。「あなたは(私を)よくわかっている」となるわけです。

一方で、心の仮定が実際に正しいのかは分かりません。「面従腹背」という言葉があるように、「心の仮定」を検証しようと思ったときに、相手の行動が本当の心を表しているとは必ずしも限りません(本当の心とは何かという話はあるのですが...)。

この不確実な「心の仮定」のもとで個々人が行動することで、私達の社会はまわっている。この仮定がパズルのピースのように噛み合ったり、ちぐはぐだったり。

分からない「心」を何とか分かろうとする営みが人と人をつなぎとめているのだとあらためて。

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