「物の意味は時間と共に発展する」ということ
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「役割モデルとしての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
私たちがある物を解釈するとき、それはまず記号として作用する(第一の要素)、それはあることを意味する(第二の要素)、さらに一定の解釈的な思考と感情を生み出す(第三の要素)。解釈を通して創出された記号は、最初の記号と同等のものかもしれないし、さらに発展したのかもしれない(Peirce, 1931-5, Ⅱ, p.228)。
たとえば、われわれがインタビューした一人のおばあさんは、夫と彼女自身の祖母からもらった結婚指輪を特別なものとしてあげており、それらを孫とその婚約者に結婚プレゼントとして与えた。これらの指輪は、記号であり(第一の要素)、この女性にとって五世代にわたる家族の継続を意味する(第二の要素)。これらの記号の第三の要素は、出会った人びとやできごとについての思い出であり、回想を通して喚起される思考や感情である。回想という特定の行為において、記憶や思考、感情はまったく新しいものではないかもしれない。しかし、彼女の生涯を通して、これらの指輪はたとえ同じ物理的形態を保持しようとも、常に「成長」し、発展し、新しい意味を帯び続け、それは現在もなお続いている。
以上のことから、物との相互作用が社会化に与える影響は検討に値すると言えよう。文化に沿った形で、ある物を使用することは、その文化を肌身で経験すること、つまり、その文化を構成する記号という媒体の一部になることを意味する。
「文化に沿った形で、ある物を使用することは、その文化を肌身で経験すること、つまり、その文化を構成する記号という媒体の一部になることを意味する」
この言葉が印象的でした。
「物」をどのように捉えるのか。「客体的された現実」として捉えるのか、それとも物の解釈を促す「文脈」の中で捉えるのか。
本書では「指輪」の例が取り上げられています。「指輪」はそれ自体では単なる「物」にすぎません。
「何のため、誰のための指輪?」と問いを立ててみると、その指輪に触れる人によって様々でしょう。自分で身につけるため。誰かへの贈り物としての物。結婚指輪のように「誰かとの関係性」を埋め込んだもの、つまり自分と相手のためのもの。物質性という観点では同等でも、付加される意味は多様です。
物に付加される意味について、もう少し考えてみたいと思います。たとえば自分で指輪を身につけることが、どのような意味を持つのか。
たとえば、身につけることで、他者に力強さや洗練された印象を与えたり、(結婚指輪のように)身につけることで他者に対して関係性を明示する意味があるかもしれません。
特に、後者のように特別な関係性を表現する上では社会的な文脈の中に意味が埋め込まれている必要があります。誰との間で「共通認識」が醸成される必要があります。自分とは直接の接点がない第三者から見ても指輪を見て、「この方は結婚してるのだな」という認識が生まれるとき、社会的な文脈の中に意味が埋め込まれている。
最初からそのような共通認識があったのではなくて、最初に誰かがそのような決め事をして、それが徐々に広まった結果として共通認識が出来上がっている。だとしたら、指輪に「婚姻関係」という意味を埋め込んだ人は「なぜ指輪にしよう」と思ったのか、気になるところです。
「彼女の生涯を通して、これらの指輪はたとえ同じ物理的形態を保持しようとも、常に「成長」し、発展し、新しい意味を帯び続け、それは現在もなお続いている」という著者の言葉は示唆に富んでおり、物に込められた意味は時間的に発展していく。
本書の事例のように結婚指輪を「受け継いでゆく」という営みを通じて、物に関わる人が増え、その人達が指輪とともに過ごした時間(思い出)が蓄積されてゆく。指輪も「想いを受け止める器」であり「人びとを一つにする物としてのシンボル」なのだな、と思うのでした。
「一体それが何を意味するのか?」と問いかけること自体は簡単だけれど、いざ意味を説明しようと思うと、その「物」にまつわる文脈を一つひとつ紐解く必要があって、決して一筋縄ではいかない。しかも、それは時間と共に変化するのだから。
普段、意味について問いかけるとき、どこか「普遍的」で「客観的」な何かを期待してしまう気がするのですが「物の意味は、主観的で多様である」ということを頭の片隅に置いておきたいと思います。
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