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「笑う」ということ。〜爽やかな風が心にそよぐ〜

振り返ってみて、「お腹を抱えるほど笑った瞬間」は直近でいつのことだっただろう。とある動画を見て、お腹を抱えて笑ってしまった自分がいて、その高揚感が少しずつ落ち着いてきたときにふと、そんなことを思いました。

力強く響く声を出そうとするとき「お腹から声を出す」と言われことがありますが、これがなかなか難しいと感じます。そう言われても、なかなか力強く響く声は出せないというか、そもそもイメージができないというか、意識ではどうにもならないというか…。

一方で、「お腹を抱えるほど笑う瞬間」というのは、自分でもどうしてこんなに力強く響く(笑い)声が出るのだろう、それも身体がこれほど力みなく…リラックスしている…というぐらい不思議な感覚を覚えるのです。無意識的に瞬間的に全身が連動、協調しているのだと思います。

笑い終えた瞬間、笑いの余韻が残っている時間、モヤモヤとした心に爽やかな風がサラッと吹き込んで澄み渡っていく。「腹の底から笑う」ということ。

笑うポイント、笑いのツボというのは人それぞれのところがあって、「えっ、そこで笑うの?」という反応に出くわすことがありますが、その瞬間はその人らしさが垣間見える貴重な瞬間だったりします。

「毎日笑って生きていこう」というつもりもないのですが、気分がスッキリしないとき、モヤモヤするときは「腹の底から笑ってみよう」という。ただそれだけのことなのですが、とても大切なことだと思います。

腹の底から笑う瞬間というのは、心が動いている、感動しているということに他ならないと思うのです。笑うことにかぎらず、日々何かしらに感動して過ごしたいものです。

以前読んだ、ベルクソン『笑い』という著書をあらためて読み返してみると読後感が全く違うのは、自分が変わったからなのだろうな…と思います。何度も読み返したくなる本、読むたびに新鮮さを感じる本に出会えるというのは一つの幸運かもしれません。

笑いとは何を意味するのだろうか。笑いを誘うものの根底には何があるのだろうか。道化役者のしかめ面、言葉遊び、ヴォードヴィルの取り違え、洗練された高級喜劇の一場面といったもののあいだに、何か共通のものを見出すことができるだろうか。どのように蒸留していけば、こうしたさまざまな成分から漂ってくる鼻持ちならない臭いやほのかな香りのエキスを、常に変わらぬエキスを手にすることができるのだろうか。アリストテレス以来、最も偉大な思想家たちがこのささやかな問題に立ち向かってきた。けれども、この問題は彼らの努力をかいくぐり、滑り抜け、身をかわしては立ちはだかることを繰り返している。それは哲学的思索に対して仕掛けられた憎らしい挑戦といってよい。

ベルクソン『笑い』 第一章 おかしさ一般について

わたしたちもまた、わたしたちなりのやり方でこの問題に取り組もうとしているわけだが、それに当たって断っておきたいのは、おかしさを生む空想力をひとつの定義に閉じ込めるつもりはない、ということである。わたしたちはこの空想力のうちに、何よりもまず、生きているものを見るのである。どれほど軽微なものであっても、わたしは生に対して払うべき敬意をもってこの空想力を取り扱うことにしよう。私はこの空想力が生長し、開花するのをみつめるだけにしておきたいのだ。

ベルクソン『笑い』 第一章 おかしさ一般について


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