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橋がかかる場所を見つける人・つくる人

今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第8章:協調性から社交性へから「わかりあえないことから」を読みました。これで本書を読み終えます。

本節の主題は「わかりあえないことから」です。

まずは本書のエッセンスを整理したいと思います。

コミュニケーションの核心は「他者のコンテクストを理解すること」にあるのでした。コンテクストとは「相手がどのようなつもりでその言葉を使っているのか。相手がどのようなつもりでその行為をしているのか」との意味で捉えることができます。

だからこそ、コンテクストの数だけ言葉や行為の意味が存在します。自分と相手の間にある「コンテクストのずれ」に気付き、自分の内側にある生きた知識や経験を呼び起こして、「もし自分が相手の立場だったら、どのように感じるだろうか」と想像する。それは自分を離れて相手に同化するのではなく、自分にしっかりと軸足を残したまま相手に自分を重ねてゆく。そのプロセスこそが「共感」です。

ホスピスでのコミュニケーション事例で紹介されていたように、相手の言葉が本心を表しているとは限らない。言葉の裏側にある「この人が本当に伝えたいことは何だろう?」と察すること。オウム返しも含めて、相手の言葉を受け止めること。

そのようなプロセスを繰り返しながら、多様なコンテクストがあることを理解した上で、それらを束ねる調整能力が多文化共生社会に求められている。

そして、協調性から社交性へ。

著者は「教育とは、主体的に演じる子どもを育てるためにある」と述べていました。フィンランドの教育手法が紹介され、大切と感じたことを劇として表現する事例を通じて、主体的に演じることが教育に盛り込まれていることが示されました。

演劇では、俳優が舞台上でそれぞれの役を演じ、呼吸をあわせて一つの物語を紡いでゆく。演技を離れ、舞台裏では波長が合わなくても、瞬間的に互いのコンテクストを重ねあわせてうまくやってゆく。わかりあえない感覚を残しながらも、つながりを築く。それを「社交性」と呼び、協調性から社交性へと意識を移してゆくことが大切となる。

私たちは日常生活の中で様々な環境、文脈に置かれ、その中で役割を変えながら生きています。無意識的に色々な役割を演じていて、その役割の総体が自分を形づくっている。「タマネギは皮の総体である」ように、自分の皮をむいてもむいても、本当の自分は見えてこない。

だからこそ「演じさせられている」と感じてしまうとき、演じることを意識してしまうとき、演じることが息苦しくなり生きづらさに変わってしまう。

日本では「演じる」ことにマイナスのイメージを持たれがちだけれど、そもそも日常の中で役割を演じ分けていて、その中で嬉しさ・楽しさ・辛さを感じながら生きているのだから、演じること自体はマイナスではないのです。

コミュニケーションのダブルバインド

著者は、コミュニケーションのダブルバインドについて次のように言及しています。

 これまで見てきたように、日本社会には、水平方向(会社などの組織)にも、垂直方向(教育システム全体)にも、コミュニケーションのダブルバインドが広がっている。だが、実は私は、この「ダブルバインド」を、決して単純に悪いことだとは思っていない。それは苦しいことだけれど、その苦役は日本人が宿命的に背負わなければならない重荷だろう。

組織と教育という両面からコミュニケーションがバインドされている(制約されている)。これは「多様なコンテクストを理解し束ねる」という本来のコミュニケーションが阻害されることを意味します。

組織でいえば、上司と部下の関係で部下が自由に意見を言えない、形だけのコミュニケーション改革。多様な意見が表出し、束ねられる環境というのは場や制度を形式に取り入れることではなく、人の関係性が変わることです。

日本語は敬語が発達しており、上下関係なくフラットに相手を誉める言葉に乏しい。フラットな関係を構成するのが「ていねい語」なのでした。「意識を変える前にまずは言葉づかいを変えよう」というシンプルなメッセージ。

教育面では、唯一の正解のない問いについて「自分ならどう思うか」を問う機会が少ないこと。そのような問いは、どのようなコンテクストを想定するかで答えが変わる。コンテクストに対する想像力が必要であり、そのために生きた知識や経験が必要となります。

こうした制約が、本来のコミュニケーションを妨げているということです。

橋がかかる場所を見つける人・つくる人

著者は「ダブルバインドから来る自分が自分でない感覚と向き合わなければならない」と述べます。

わかりあう、察しあう古き良き日本社会が、中途半端に崩れていきつつある。私たち日本人も、国際化された社会の中で生きざるをえない。しかし、言語やコミュニケーションの変化は、強い保守性を伴うから、敗戦や植民地支配のようなよほどの外圧でもない限り、一朝一夕に大きく変わるというものでもない。私たちは、この中途半端さ、この宙づりにされた気持ち、ダブルバインドから来る「自分が自分でない感覚」と向きあわなければならない。

国際社会の中では日本のような「察しあう文化」が少数派であることを踏まえると「野暮だな」と思っても自分の考えを伝えることからコンテクストの理解が始まるということ。

「伝えなければわからない」という「察しあわない文化」の作法を身につけることは、必ずしも自分の文化を捨てて相手に同化することを意味しないと著者は述べていたのでした。

それもまた「演じる」という文脈の中で統一的に語ることができそうです。多文化共生社会において「伝えなければわからない」というコンテクストの中で「自分を積極的に伝える人」という役を演じる、ということ。

最後に著者はこのように述べます。

わかりあえないというところから歩きだそう。

本書を通じて「わかりあうこと」に対する捉え方が少し変わりました。

特に、同化するのではなくて共感すること。軸足を自分に置いたまま相手のコンテクストに自分を重ねてゆくこと。自分は相手とは違う。だからこそ、本当に相手が何を伝えたいことは想像、察するしかない。どこまでいってもわからない。

ときには関係の面倒くささを伴います。ですが「どうせわかりあえない」と最初から可能性を閉ざすのではなく、相手と自分の間に橋がかかる場所を見つける・つくる。

「橋がかかる場所を見つける人・つくる人」

そのような人が一人でも増えてゆくことが社会の成熟なのだと思いますし、私もそうあるように歩みを進めていきたいと思います。

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