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私(I)から私たち(We)へ〜愛着はどこから芽生えるのだろう?〜

「価値があるとはどういうことか?」という問いは、まず「愛着とは何か?」という問いから始まっている。

「愛着」という言葉を自分事化して考えてみます。

スタジオに通って続けているヨガですが、私一人ではなく色々な方々と同じ時間、空間を共有しながら同じ動き(シークエンス)に取り組んでいます。

始めてからしばらくは自分のことで精一杯で、それこそ「愛着」は芽生えていなかったと思います。

何度も何度も取り組んでゆくうちに身体の可動域も少しずつ広がり、気持ちにゆとりが出てきて楽しさを覚えてくると、周りの方々の集中力というのか気力というのか、取り組まれている姿勢から気持ちがみなぎる感覚が芽生えてきました。

"私(I)"から"私たち(We)"へ。

気づけば、そう思えた時に通いなれた場所、時間に対して「愛着」が芽生えたような気がします。

そうすると、愛着の自分独自の意味と、愛着の対象は、どのように(人によって異なることのない、非個人的な)価値に関係するのでしょうか?単純に言えばこうです。私たちの愛着は対象に見出される(非個人的な)価値を自らのものとし、対象を自分たちにとってだけ意味あるものにします。そのとき対象への愛着は、その対象の価値と愛着そのものの承認を、はるかに超越する意味を持ちます。愛着は、その対象に私たちの生活における役割を与え、その対象を私たちの人生の成功や失敗に関わるものとします。

ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』

私は自分の街の善い点や地域活動に取り組む価値を認めるかもしれません。とはいえ、街での生活とそれへの関わりが私自身の人生にとって重要なものとなるのは、私が市民生活を気にかけ積極的に関わることを通じて、街の善い点や地域活動への取り組みの善い点を現に理解することによってだけです。対象や理念、追求に関する自分にとっての意味は、これらのものの非個人的な価値に依存し、条件づけられます。

ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』

しかし価値あるものは、私たちの生活に意味を授けるためには私たち自身のものとされなければならず、そうした意味は、人生を成功したものか挫折したものかにするその前提条件となります。愛着は、私がここで「自身のものとすること」に付ける名前です。愛着は、キツネが王子さまに説明したように、飼い馴らすことの結果なのです。

ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』

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