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生活の中心に「情緒」を置く

ゆったりと穏やかな時間の流れる年末年始。実家に帰り、家族に年越し蕎麦をふるまう。具材はシンプルに。たっぷりの鶏肉とネギ、えのき茸。具材の旨味がしっかりと溶け出しているので、味付けは最小限。あとは食べる際に人それぞれ、お好みで薬味を添えて。

作りながら、作り立ての味、一晩寝かせた時の味、家族が食した時の反応を想像する時間がとても心地よい。特段、手間暇をかけているわけではない。手をせかせか動かしているわけではないけれど、コトコトと揺らぐ鍋の中身をジッと見ていると、自然と心が空っぽになっている。そんな空っぽな時間がいい。

特に予定が詰まっているわけでもない。あれこれ選べる本の中から、直感に任せて手に取った本は(多変数解析函数論で知られる)数学者・岡潔さんによる『春宵十話』だった。

本書の中で岡先生は「情緒」の大切さを説いている。読了後に「生活の中心に情緒を据えよう」と思った。いくつかの言葉を引きながら、この気持ちをあとから思い返せるようにしておきたい。

 人に対する知識の不足が最もはっきり表れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい」

この言葉は「性急に答えを出すことの過剰さへの警鐘」なのかもしれない。もちろん、仕事や試験など限られた時間の中で何かしらの判断を行い、行動に移して問題を解決が求められる場面は日常生活の中にあふれていて、それが日常を支えている側面はある。

けれど、その性急さが過剰になってしまうと動物性(生存本能や闘争本能)が、本来人を支える人間性(支援、協調、調和など)を覆い隠してしまう。だから、バランスを取る。じっくりと心を働かせる時間を積み重ねていく。

 よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

「春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいい」

人を評価し、人から評価される。関係性には他者からの評価が付いてくることもある。他者からの評価は時に厳しいものかもしれないけれど、その厳しさが自分の歩を進める原動力になることもある。

他者の評価を気にせず、ただ自分の自分による自分のためだけの営みを大切にする。日の目を見るかは分からない。けれど、いつか何かしらのきっかけで誰かの目に止まるのだとしたら、それは縁起的な「おすそわけ」になるのかもしれない。見返りを求めるのでなく「もしよかったらどうぞ」という。

発見的な喜び。発見の対象は世界に無数にある。この一年で思ったことは、自分自身を見つけることに発見の喜びがあるのかもしれない、ということ。自分のことは自分が一番よく分からない。それは自分の身体をどのように動かしているのか説明できないように、無意識のうちに全体が調和していて、細部の積み上げとして運動していないように。全体運動の不確実性がある幅の範囲内に収まるように、自然と調和させている不思議さに包まれている。

 文化の型を西洋流と東洋流の二つに分ければ、西洋のはおもにインスピレーションを中心にしている。たとえば新約聖書がインスピレーションを主にしていることは芥川龍之介の「西方の人」を見ればよくわかる。これに対して東洋は情操が主になっている。孔子の「友あり遠方よりきたる、また楽しからずや」などその典型的なものだし、仏教も主体は情操だと思う。木にたとえるとインスピレーションの型は花の咲く木で、情操型は大木に似ている。

花の咲く木と大木。

何かしらの成果を出す。「華々しい成果」と形容されるように、それは時に花にたとえられる。人は花を咲かせなければならないだろうか。

もちろん、花が咲くこと自体の喜びはある。花の美しさが人の心を和ませ、元気付けることもある。一方、大木のように目立つ花が咲かなくとも、根をしっかりと張って自分を支え、その支えが周囲の支えにもなっていること。木々がしっかりと根を張っていない大地は、大雨が降れば土壌が大量に流出してしまうように。目立たないかもしれないけれど、貴重な存在。

インスピレーションと情操。どちらかに偏らないようにしたいもの。

 情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだったこの日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなにたいへんなことかがわかるはずだ。これは農薬のせいに違いないが、農薬をどんどんまいてはしごをかけて登らなければならないような大きなキャベツを作っても、いったい何になるのだろう。キャベツを作る方は勝手口で、スミレ咲きチョウの舞う野原、こちらの方が表玄関なのだ。情緒の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである。

「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する」

国と国との争い。経済や政治の混乱。悲しみや憤りの声。ウイルスの流行。世界的な分断。

一年を通して生活に影が落ちていたかもしれない。まさに起きている事象を「情緒」という視点で眺めてみると何が見えるだろうか。

 はじめの善行に戻ると、フランスのジイドは「無償の行為」ということをいっている。これはこのくにの善行と似ているようだが、大分違う。このくにの善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。
 このような打算も分別もはいらない行為のさいに働いているもの、それが純粋直観である。これはまたこのくにの昔からのいい方では真智といわれる。ただ智力といってもよい。(中略)この智力が射さないと存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって、手近に見える外界や肉体はたしかにあるが、心などというものはないとしか思えなくなる。かようにして物質主義になるのである。

純粋直観を働かせること。打算も分別もはいらない行為。

打算や分別が入り込んでしまうのは、どういう時だろうか。心や身体に余裕がないとき。何かを背負っているとき。相手を人として見ていないとき。何かを自分のものにしたいとき。

逆に打算や分別が入り込まない時というのは、どういう時だろうか。

 道義の根本は人の悲しみがわかるということにある。自他の別は数え年で五歳くらいからわかり始めるが、人の感情、特に悲しみの感情は一番わかりにくい。

人の悲しみがわかること。それが道義の根本にある。

人はどのような悲しみを抱えているのだろうか。人それぞれの悲しみがある。「わかる」とは、はたしてどういうことを言うのだろう。少なくとも、論理的に理解する、解釈することではないように思う。

相手が「つらい」「悲しい」と言う、あるいは言葉にしなくてもつらそう、悲しそうだと直観する。そのときにただただ「つらかったね」と寄り添う、あるいは言葉にせずとも寄り添うこと。そういうことではないだろうか。

心と身体を解放しなければできない。打算があってもできない。

 ところで、数学と人類全体の福祉、利益との関係はどうなっているのでしょうか。以前は数学は計算も受持たなくてはならなかったのですが、最近機械が発達して機械的なものは機械にやらせればよいようになってきました。やがて論理学も人がやらなくてすむようになるでしょう。こうなると数学の役目というのは機械にはできないことをやるということになります。それは調和の精神を教えるということであります。

2022年は毎朝欠かさず、数学の問題を数問解き続けた。『心はすべて数学である』という本に出会ったことがきっかけ。結果、いつからか問題が解けても解けなくても、「ああ、自分の心が動いているなぁ」という実感を持てるようになった。

調和の精神なのかは分からないけれど、問いの中に含まれる大切な何かを見つけた時の喜びは格別だった。問いを立てること。飛びつかずに直観する。具体と抽象を行き来する。これからも心を動かし続けたい。

何が問われているのか分からない、あるいは次に進むために何を考えるべきなのか分からないときは、具体的に手を動かしてみて「こうかもしれない?」を直観する。

未来の自分がこの文章を読み返したときにどう思うだろうか。拙い言葉でも整っていなくとも、それでいい。そして、何かのご縁でこの文章に目を止めてくださった全ての方々に感謝の気持ちを述べたいと思います。

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