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中立な観察者〜感情と理性の相互作用、ダイナミクス〜

「なんであんなことを言ってしまったんだろうか」
「なんであんなことを思ってしまったんだろうか」

それは他者に対してかもしれませんし、あるいは自分に対してかもしれません。「相手のことを思って」という枕詞がつくとき、良くも悪くもその言葉は自分本位、利己的な言葉になっているかもしれない。

ですが、できることならば「相手のことを思って」のことが実際に相手のためになってくれたら…という気持ちは(今すぐでなくともよいので)どこかで実ってほしい。

『道徳感情論』『国富論』で知られる有名な経済学者アダム・スミスが言うところの「中立な観察者」、つまり中立的な判断を下支える理性などが「相手のことを思って」を引き受けてくれるのでしょうか。

「相手のことを思って」というのは感情や情動からの言葉だとすれば、感情や情動と理性が対立せずに無矛盾で補完しあうことが望ましいと思います。

感情や情動に基づいた考えを、一歩引いて理性が再検討する。アクセルとブレーキは交互に踏むからこそ意味を成すように、感情と理性も交互に働かせてゆくことが望ましいのかもしれません。とすれば、感情と理性の間にもリズム、すなわち時間的変化、ダイナミクスが存在している。

ダイナミクスが調和するのは、一体どのような時なのでしょうか。

人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。

ラス・ロバーツ『スミス先生の道徳の授業 アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』

ここで作用するのは、もっと強くて有無を言わせない力 - 理性であり、原理であり、良心であり、胸中の住人、内の人、自分の行動の偉大な裁判官にして審判者である。他人の幸福を脅かすような行動をとろうとすると、ひどく厚かましい情念でさえ驚くような大声で必ず警告を発するのは内の人であり、おまえは大勢のうちの一人に過ぎず、どの点をとっても他人よりすぐれているとは言えないのだと、他人より自分を優先するようなもの知らずの恥ずかしいふるまいをするなら、怒りや憎しみや呪いの対象となって当然なのだと、注意してくれる。

ラス・ロバーツ『スミス先生の道徳の授業 アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』

自分自身も自分に関係のあることもすべてとるに足らないのだと学べるのも、放っておくと利己心が犯しやすい偽りを正せるのも、この中立な観察者がいればこそである。寛容がいかに好ましく不正がいかに醜いか、すなわち自分にとって最大の利益を放棄して他人のより大きな利益を優先することがいかに好ましく、自分にとって最大限の利益を得ようとして他人にささやかとはいえ損害を与えることがいかに醜いかを教えてくれるのも、この中立な観察者である。

ラス・ロバーツ『スミス先生の道徳の授業 アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』



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