Questions without Answers.
今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第8章:協調性から社交性へから「落書き問題」を読みました。
本節の主題は「様々な答えがある問い」です。
コミュニケーションの起点となる「コンテクストの理解」とは、ある意味で唯一の正解のない問いに答えることに近いと言えるかもしれません。
「相手が本当に伝えたいことは何だろう?」
もし自分が相手の立場だったらどう思うだろうか。自分を離れて相手に同化するのではなく、自分の知識や経験に照らしながら、自分を掘り下げて相手と重なりあう可能性を探ってゆく。
本節では、PISA調査(Programme for International Student Assessment)というOECD(経済協力開発機構)が参加各国の一五歳を対象に三年ごとに行なっている世界共通の学力調査の中で出題された「落書き問題」が題材として扱われます。
この問題は複数の回答がある設問であり、正解を当てる教育に置かれてきた学生達は何を聞かれているのかさえわからずに戸惑ってしまったそうです。日本の教育界にも衝撃が走ったのだとか。
答えのない問い
PISA調査で出題された「落書き問題」について、著者は次のように紹介しています。
落書きに関する二つの投書を踏まえて「さて、どうでしょう?」という問いです。どのように受け止め、どのように答えるでしょうか。
困る人もいれば、表現の一つであると捉える人も居る。これも、「落書き」
の意味は、一人ひとりが置かれたコンテクスト(どのようなつもりでその言葉を使っているか?)の中にあると言える事例ではないでしょうか。
とすると、この問題の答えは「どのようなコンテクストを想定するか?」によって変わってくるように思えます。
「困る人がいるから落書きは悪いこと。だからやめるべきだ」という答えはひとつかもしれません。一方、どのような落書きならば認められると思われるでしょうか。壁に書かれたある種の作品としての美しさを放っていたり、何かを必死に伝えようとしている言葉であったり。
「落書き」という表面的な行為だけではなく、そこに込められた「意志」を「コンテクスト」を感じ取りたいものです。
言葉の印象から離れ、様々なコンテクストを想像する
実際、著者は学生たちに次のように問いかけたそうです。
自分事として考えてみる。ポジティブな可能性を考えてみる。「落書き」という言葉はどことなく「ネガティブな印象」が付きまとう言葉のように思いますが、言葉の印象と意味を分けて考えることが大事なのかもしれません。
学生たちの答えも様々だったようです。
明日取り壊しの建造物だったら落書きしてもいいのでは。なるほど。実用的というか現実的というか。
そして、著者は回答例を続けます。
「独裁国家だったら」
そのようなコンテクストを想像できる学生が一定数いることに尊敬の念がたえません。もし自分が独裁国家に生きていたら…。そのようなコンテクストを想像できるだろうか。
そこで「落書き」と思われてもいいから伝えたいことがあるとしたら何だろうか。
そう考えると「落書き」というのは一面的な意味付けであって、本当に大事なのは「何が描かれているのか」「何を伝えようとしているのか」であるということ。表面に囚われず、内実に意識を向けること。
「答えのない問い」を考える上では「言葉の印象から離れること」と「様々なコンテクストを想像すること」の二つが重要であると。大事な学びです。
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