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人間はタマネギのようなもの。その心は?

今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第8章:協調性から社交性へから「いい子を演じる」を読みました。

本節の主題は「本当の自分」です。

劇作家である著者は、他者とのコミュニケーションにおいて起点となる他者のコンテクストを理解する力を育むためには「演劇的手法」が有効であると説いてきました。

演劇は、瞬間的に他者とコンテクストを共有し、協調することが求められるからです。考え方も違うし、人間的にも好きになれないかもしれないけれどそれでも表向きは上手くやっていく。

多文化共生社会において重要となるのは「協調性から社交性へ」への切り替えです。他者に同化するではなく、自分に軸足を残したまま「もし自分が相手の立場だったらこう感じるかもしれない」とコンテクストを重ねること。

一方で「演じる」ことの副作用のようなものはあるのでしょうか。自分に軸足を残しておくとはどのようなことなのでしょうか。

本当の自分とは何か?

著者はこれまで不登校や引きこもりの子どもたち、そしてその保護者と演劇を通して付き合ってきた中で、そうした子どもたちが世間で言うところの「いい子」だった場合が多かったと言います。

「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちを前にして、著者は演じることについて次のように述べています。

 大人は、様々な役柄を演じ分けながら生きている。夫/妻という役割、父親/母親という役割、会社員という役割、親と同居していれば子どもという役割、他にもPTAの役員の役割や、週末はボランティア活動のNPOのメンバーの役割もあるかもしれない。私たちは、多様な社会的役割を演じながら、かろうじて人生の時間を前に進めていく。

「自分は何者だろうか?」と問われると、なかなか答えるのが難しいです。たしかに著者が言うように、役割が変わるたびに色々な自分が引き出されてゆくような感覚があります。

そんなことは、みな知っているはずなのに、子どもたちには、「本当の自分を見つけなさい」と迫る。それは大人の妄想だろう。あるいはこれも、形を変えたダブルバインドだと言えるかもしれない。

「本当の自分を見つける」

こうしたフレーズを耳にすることはめずらしくありません。自己分析、自己探求、自己啓発。

ですが、自分が置かれた文脈の数だけ多様な自分が引き出されます。どれもが本当の自分だとすれば「本当の自分=ただ一つ」という前提は成立しないのかもしれません。

人間もタマネギのようなもの。

著者は人間もタマネギと同じようなものではないか、と言います。その心は何でしょうか。

科学哲学はが専門の村上陽一郎先生は、人間をタマネギにたとえている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギ本体ということはない。皮の総体がタマネギだ。人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

「皮の総体がタマネギだ」

たしかに…。タマネギの特徴をこれ以上ないほどシンプルに表したフレーズだと思います。

「私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している」という著者の言葉に思わず「そうだよな…」と思いました。

昔、仕事の同僚が毎日とても辛そうな顔をしていました。職場の人間関係が理由のようでした。ある日、部署異動になり仕事と人間関係が変わった途端とても表情が明るくなり、生き生きとしている姿にとても嬉しくなったことを覚えています。

著者の言葉も踏まえて思うのは「誰もが人それぞれ輝けるコンテクストがある」ということです。

人間もタマネギのようなもの。

頭から離れません。

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