自分と他者のコンテクストに橋をかける
今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第8章:協調性から社交性へから「フィンランド・メソッド」を読みました。
本節の主題は「異文化理解能力(グローバル・コミュニケーション・スキル)」です。
昨日はOECDが進めているPISA(Programme for International Student Assessment)と呼ばれる15歳を対象にした国際的な学習到達度調査で出題された「落書き問題」にふれ、「答えのない問いをどのように考えるか?」という問いに思い巡らせました。
「壁の落書きは困りものだ」との主張と「落書きも表現の一つとして認められるべきではないか」との主張があったとき「あなたならどう考える?」と問われるものです。
「もし落書きが許されるとしたら、それはどのような場合だろうか」という問いに変換した場合、その答えは「どのようなコンテクストを想定するか」によります。美しく芸術性が高い場合、その場所が取り壊しになることが決まっている場合など。
そして、「独裁国家である場合」という答えも一定の割合で聞かれるそうでたしかに見た目は「落書き」かもしれませんが、命を賭したメッセージと捉えた場合にそれは許されるのではないか。
正解のない問いに向き合う上で「コンテクストに対する想像力が欠かせない」ことを学びました。
インプット(=感じ方)は人それぞれ
著者は、PISA調査でフィンランドが毎回上位に名を連ねていると紹介しています。
フィンランドでは演劇的な手法が用いられているのだと初めて知りました。これまで学んできたことを踏まえると、自分が経験済のコンテクストの外側に足を踏み出すような意味があるように思います。つまり、劇を作るという営みを通して、他者のコンテクストを想像する力が養われるのではないかと感じました。
「インプット=感じ方は人それぞれでいい」
「感じ方まで強制されない」というのは自然なように思います。一方、思い返されるのは、小学校の国語のテストで「この人物はどのような気持ちだったのか答えなさい」というようなもの。正直なところ「感じ方は人それぞれだと思うし、筆者も分からないのでは…」と思っていました。
ストーリーの前後関係からもっともらしい答えを期待されているということかもしれませんが、行間の読み方によっても変わります。そして、書かれていない部分には、想像で補完される自由があります。
自分と他者のコンテクストに橋をかける
著者は、フィンランドの教育において重要視されるのは「調整能力」であると説きます。
「橋をかける人」と言えるでしょうか。
多様なインプットはアウトプット(意見や表現)の多様性につながります。様々な意見がある中で、どれが正解か論理的には決められないような場合。文化が違えば感じ方も違うように、それぞれのコンテクストがある。
その中で、いずれかのコンテクストを強制する(同化する)のではなく、また妥協するでもなく、新しいコンテクストを共に創り上げていくこと。
それが多文化共生社会において必要とされているとすれば、その起点になるのは「他者のコンテクスト理解にもとづいて、自分と相手のコンテクストに橋をかける力」ではないでしょうか。
列車の中で「旅行ですか?」といきなり声をかけるのではなくて、その声かけが不自然ではない場面を作り出すことから始める。自分と相手のどこに橋をかける場所があるかを探ってゆく。
何かを学んだり、経験することは「本当はあるのに見えていない橋をかける場所を見つける」ためにあるのではないだろうか。そのようなことを思いました。
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