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美しいと感ずる刹那は忘我になれる

柳宗悦(民芸研究家・宗教思想家)による書籍『仏教美学の提唱』を読み進めている中で、『美体験とはじかにこの眼で直観して美しさを見届けることを云う。やさしく云えば、美しい物に即して、美しさを語らねばならない。』という言葉に目が止まった。

日々変化していく自分自身の身体。朝起きた瞬間の身体はどこか縮こまっていて、毎朝リセットされている感覚を覚える。では、その緊張は避けるべきものかというとそうでもない。緊張するからこそ、ゆっくりとストレッチをかける中でほぐれてゆく実感を得ることが出来る。

ヨガを続けていると、自分の身体をクラフト(創作)しているような気持ちになる。永遠に完成することのない創作活動。絶えず変化してゆく。鏡に映る自分の姿は、内観から思い描かれる姿と一致しないことはよくあること。

無心で主観と客観の一致を目指す中に、自分の身体に本来備わっている調和の取れた身体の使い方が現れてくるのだろうと信じている。「忘我」の中に美が宿ってゆくのだろう。そんなことを思う。

 ものを作る人も、この自在人になればよいのである。見る人が美しさに感じるとは、自在をことほぐ事に他ならぬ。美しさへの讃嘆は、自在美への讃嘆あのである。美しさが人を幸福にするのは、これで人間の心がほぐされるからである。自在美のお蔭を受けて、その自在にあやかることが出来るからである。論より証拠、美しいと感ずる刹那は忘我になれる。この忘我は執心(拘束心)の中心たる自己が溶け去る刹那である。これが幸福を与える。その意味で美しい作は、人間に心の平和を与える。美しさは争いを鎮める。人を和やかにする。茶の道はこの平和を与える道だと云ってもよい。真の意味で茶室は幸福の宝と云ってもよい。人間を拘束から解放させるからである。

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