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才能とは「人と素材の関係性」を表す言葉

今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第1章 資本主義社会と匠たち - 社会力・経済力・文化力」を読みました。それでは一部を引用します。

 二一世紀のグローバリズムの進捗を前にして「経済力と社会力と文化力の最適の組み合わせ」が要請することとは何だろうか。そのことを考えるには、わかりやすくは二つの手掛かりがあると私には思われる。
 しかし、もうひとつには、むしろ小さな切り口を充実したものにしていくことがあるにちがいない。小さな切り口というのは、社会や組織をトータルに見るのではなくて、ビッグサイズのまま見るのではなくて、それを構成しているいきいきした担い手をの手元の充実を見ることをいう。また、大きなプラントや機械システムの完成系を議論するのではなく、それを構成する部品やモジュールや使い勝手に注目してみることをいう。もっとわかりやすくいえば「人の知」のサイズで企業や社会を見ることをいう。
 かつて日本の職人たちは、「才能」という言葉を「才」と「能」に分けて実感できるようにしてきた。ごくかんたんにいうと、「才」は大工や陶芸家や庭師などの人間の側がもっているもので、「能」は木や石や鉄などの素材が持っている潜在力のことである。人間がもっている「才」が素材にひそむ「能」をはたらかせるということ、この「才」と「能」の二つが合わさって才能だとみなしたのだった。
 中世の庭師のための指南書『作庭記』には、「石の乞わんに従え」という有名な教えが書いてある。橘俊綱の著述とされる。庭石を庭に配置するときは、石がひそませている「こうしてほしい」という声を聞きなさい、その声に従いなさいというのだ。そうすれば庭と石の案配がおのずから決まってくる。そのことを会得しなさいという教えだ。これは日本の職人が大事にしてきた「才能」というものの感覚をよく伝えてくれている。

「才能」という言葉を思い浮かべると、それは人が有するもの、人間の側にあるものだと捉えていました。ですが、かつて日本の職人が「才」と「能」を分けて考えていたのだと知って、才能という言葉の認識が変わりました。才能とは「人とモノの関係性」を表す言葉であると。

人がモノの可能性を見出し・引き出す。モノが人の可能性を見出し・引き出す。人とモノが今日進化していく。私は趣味でサックスを吹きますが、楽器の演奏を例にあげるならば、習熟度に合わせて、楽器を変えていくイメージが浮かんできました。

楽器を習い始めの頃は「こういう音が出せるようになりたい」と思えるほどには「音に対するイメージ」を持つ余裕がなく、何とか吹ききることで精一杯です。

ですが、練習を重ねて技術が向上したり、様々な演奏を耳にする中で「こういう音が出せるようになりたい」「運指をなめらかにするために楽器のこのパーツを変えてみたい」などと思うようになりました。

楽器が演奏者の可能性を引き出し、演奏者が楽器の可能性を引き出す。この関係性の中に立ち現れるものが「才能」なのだな、と。「才能」とは無条件に人が持っているものというイメージから離れて、組み合わせの中で考えるのだと。

さらに言えば「自分と他の何かとの組み合わせ」という枠からも離れることができるように思います。その素材とは「自分の身体」です。自分の身体の可能性を自分で見出して引き出すこと。それもまた組み合わせの中で捉える「才能」に含まれるように思います。

「自分のことは案外自分ではよく分からない」と言いますが、プロスポーツ選手のように「自分の身体を精密に操作する」ためには、まず何より自分の身体の状態やクセを見出し、理解していることが必要ということなのでしょう。そして、その上で身体"能力"を引き出す。スポーツ選手の才能は身体との関係性の中に立ち現れる、と考えることができそうです。

チームや組織という文脈にあてはめてみることもできそうです。たとえば、一緒に仕事をする人が変わることで、ある人が急に生き生きと活躍することがあるかもしれません。他者との関係性の中で「人の可能性が引き出された」と捉えるならば、その豊かな関係性の中に「才能」が立ち現れたと言えるのではないでしょうか。

「石の乞わんに従え」という『作庭記』の教えが引用されていますが、空間と石(モノ)の組み合わせ(関係)をあるべき場所に変えること。つまり、最適化するということ。

人と素材の組み合わせの数が無限にあるとするならば、その関係性、つまり「才能」もまた無限に存在する。「あの人には才能がある」とか「あの人は才能がない」という言い回しは本来成立しないのだ、ということ。

今日も大切な学びを得ました

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