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「生命誌」を綴るという生き方〜知識と体験の一体化〜

中村桂子さんの著書『生命誌とは何か』を読み進めていると、私がこのnoteで徒然なるままに綴っていることが、もしかすると一つの「生命誌」なのではないかと思いました。

感じたこと、特に身体を通して直観した「ありのまま」を、言葉に降ろしてゆく。自分の感覚や体験に、先人が築いてきた知識の体系、紡いできた言葉を重ね合わせて、織物のように綴っていく。

その過程を通して、「生きているということ」が自分事として感じられるようになる。自分自身が生きているということだけでなく、「万物の通奏低音」としての生きているということ。

中村さんは生命誌に「学問と日常、つまり知識と体験の一体化」という願いを込められています。そして、科学の特徴である積み上げ方式に従って、「生命現象についての先人の成果を百パーセント活用しながらそれらを乗り越えていこう」と。

ヨガや音楽、言葉、自然科学。

好奇心、直感に従ってブリコラージュ的に拾い集めて、自分の内側にしまっておくと、時間と共に混ざり合い、発酵して、何かのきっかけで「こうかもしれない」と表に出てくる。

これからもそんな瞬間に出会い、紡ぎ、綴ってゆく。「生命誌」という織物を織り続けてゆくことが私の生き方なのかもしれません。

 実際の研究は、DNAを中心にした研究であり、生命科学とつながったものですが、視点が違います。実は生命誌という考え方をもつようになってからの私の関心は、生きものというより「生きているということ」にあるのだと思うようになりました。生物という物ではないし、また生命という抽象概念でもなく、生きているという現象です。

中村桂子『生命誌とは何か』

この「こと」という捉え方は面白いと思っています。現代科学が生物を機械のように見てDNAに還元するのはけしからん、生物は全体的な存在だといって、東洋思想をもち出して批判しても建設的ではありません。科学の特徴である積み上げ方式に従い、生命現象についての先人の成果を百パーセント活用しながらそれらを乗り越えていくのが最も面白い作業だと思っています。

中村桂子『生命誌とは何か』

大げさついでに、生命誌の狙い - というより願い - を上げておきます。学問と日常、つまり知識と体験の一体化です。なにより人間自身が生きものであり、他の生物は人類誕生以来つき合ってきた仲間ですから、日常の体験の中で知ったことがたくさんあります。直観でわかることもある。他の生きものの生き方から学ぶことも多い。それとDNAを基本にした生命システムの学問的理解とは矛盾せず、むしろ補い合い、かさなり合うはずです。こうして生まれるのが知恵でしょう。生命誌は、専門家と素人、研究者と生活者などの区別なしに、誰もが当事者です。あなたも生命誌の当事者と自覚していただきたいのです。

中村桂子『生命誌とは何か』


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