ヨガに取り組んだり、楽器を演奏する中で、色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは星と星の間に線が見つかり星座となるように、つながってゆく。
「身体を動かすこと」を通じて何かと何かがつながったり、ぼんやりとしていたことが輪郭を持ち始めたことがある、という経験があるのは私だけではないと思います。
そこで、しばらくの間このような個人的な感覚を深掘りしてみたいと思い、一つの手掛かりとして「身体化された認知」の理論を参照しながら、身体的体験の意味を探ります。
身体化された認知の理論の中心にある考え方は「思考が知覚、行為、情動を基盤としている」というものです。
「そもそも思考するとはどういうことか?」という問いそのものが、答えが一意に定まっていない(多様である)意味で極めて深遠ですが、その問いを考えるための問いとして「そもそも思考は脳"だけ"で行われているのか?」という問いが浮かんできます。
「思考」という言葉に対して、頭や脳をイメージする方が多いのではないかと想像しますが、一方で前述した個人的な体験、「身体を動かす中で何かと何かがつながってゆく」という体験は、「思考は脳"だけ"で行われているわけではない」ことを予感させます。
この予感が「身体的な認知の理論」によってどのように下支えられるのか、学びを深めながら、「動かなくとも生活が完結する時代・社会」において「身体を動かすことの意味」を考えます。