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身体化するということ〜身体化された認知の理論における「思考」の位置付け〜

ヨガに取り組んだり、楽器を演奏する中で、色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは星と星の間に線が見つかり星座となるように、つながってゆく。

「身体を動かすこと」を通じて何かと何かがつながったり、ぼんやりとしていたことが輪郭を持ち始めたことがある、という経験があるのは私だけではないと思います。

そこで、しばらくの間このような個人的な感覚を深掘りしてみたいと思い、一つの手掛かりとして「身体化された認知」の理論を参照しながら、身体的体験の意味を探ります。

身体化された認知の理論の中心にある考え方は「思考が知覚、行為、情動を基盤としている」というものです。

「そもそも思考するとはどういうことか?」という問いそのものが、答えが一意に定まっていない(多様である)意味で極めて深遠ですが、その問いを考えるための問いとして「そもそも思考は脳"だけ"で行われているのか?」という問いが浮かんできます。

「思考」という言葉に対して、頭や脳をイメージする方が多いのではないかと想像しますが、一方で前述した個人的な体験、「身体を動かす中で何かと何かがつながってゆく」という体験は、「思考は脳"だけ"で行われているわけではない」ことを予感させます。

この予感が「身体的な認知の理論」によってどのように下支えられるのか、学びを深めながら、「動かなくとも生活が完結する時代・社会」において「身体を動かすことの意味」を考えます。

身体化された認知(embodied cognition)の理論は哲学者、認知科学者、認知心理学者、認知神経科学者によって検討されてきたが、身体化された認知の意味するところについて、それぞれの立場で異なる考え方をもっていることが多い。(中略)著者が本書において採用する身体化された認知の見方は、われわれが世界をどのように理解し、概念知識を構築するのかを決定するうえで身体 - 具体的には感覚や身体的経験 - が必須であると主張する。

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

哲学者が身体化された認知を検討するのは、意識の理論に関心があり、こころとは何か、そして、われわれの身体は知覚や思考に関わっているのかを問題にしているからである。(中略)コンピュータが開発され、人工知能が進歩するにつれて出現した分野を代表する認知科学者も、身体化された認知に興味を持っている。彼らは人の認知をシミュレートする計算モデルを創り、人の脳は思考の内的表象を必要とするかという問いを提起する。(中略)認知心理学者は、知覚や注意、記憶、情動、言語といった認知過程を探究するために身体化された認知の理論を検討し、身体経験が世界に関するわれわれの内的表象にどのように影響するか、もしくは構成するかを調べている。

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

身体化された認知は、概念知識の表象が身体に依存することを意味する。つまり、概念知識の表象はマルチモーダルであり(すなわち、視覚、聴覚、触覚などと関連している)、非モーダル的、シンボル的、抽象的なものではないのである。この理論は、われわれの思考が知覚、行為、情動を基盤としている、すなわちそれらと密接に連合しており、脳と身体は協働して認知を作り出すことを示唆する。

レベッカ・フィンチャー - キーファー『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』

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