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"自分"とは「私の響き方」ではないだろうか

どこか「懐かしさ」を感じ、じんわりと心が温かくなるような、やわらかない言葉に出会うと、自分の心が少しずつほどけてゆく感じがして、と同時に心が固くなってしまっていたことにも気づく。

高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』は、読むたびに懐かしさを感じる一冊で、時折じっくりと声に出して読み返したくなる。

これからしばらくの間、高木さんの言葉に宿る懐かしさ、温かさを分かちあいながら、感じたことを徒然なるままに綴ってみたい。

赤ちゃんの頃、降り注いだ光、不思議な音、嗅いだにおい、手触り。どんなふうだったろう。「もう、赤ちゃんじゃないんだから」と、はからずも赤ちゃんを卒業させられた時、すっかり赤ちゃんの世界に蓋をして、僕は「子ども」になった。夢中で楽しんだこと、無闇に畏れたこと、世界が色鮮やかに見えたこと、何もかもが歌っているのを知ったこと。「もう、子どもじゃないんだから」と、自分に言い聞かせ、子どもの世界に蓋をして、僕は「青年」になった。

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

まだ見ぬ世界、どんな素晴らしいことが待ち受けているのか、どうやったらそんな世界にたどり着けるのか、そんな世界で自分は生きていけるのだろうか、悶々と悩みながらも、突き進む毎日。いつしか、そんな悩みに蓋をして、僕は「大人」の門をくぐった。社会に出れば「社会人」になるし、結婚すれば「夫」や「妻」になる。子どもが生まれれば「父親」や「母親」になる。歳をとれば「老人」になる。その時々で、それぞれの役割を全うするのはとても大切で必要なことだ。でも、それだけではやっぱりもったいない。

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

"いま"を生きている僕は、どれくらいきちんと「自分」でいられているだろう?いらない「自分」を置き去りにした分、身軽で見栄えのいい大人になったのはいいけれど、ずいぶん、生き方が狭くなってやしないだろうか。大人になるためにその都度捨ててきた「自分」は、いったいどうしているのだろう?どうやったら、閉じてきた蓋をひとつひとつ開け、捨ててきた「自分」を取り戻せるのだろう?

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

今回引用した言葉の中で、心が動いたのは「自分」という言葉。あらためて「自分」とは何を意味するのだろう、と問いかけてみる。

まず言葉そのもの注目してみると、「自らを分かつ」と書いて自分と読む。一人で過ごしている時の私、家族や友人と一緒に過ごしている時の私、仕事をしている時の私。色々な時間の過ごし方があり、色々な時間を過ごしている私がいる。

色々な時間の過ごし方の中にいる私は「いつも変わらぬ私」なのだろうか。家族や友人との響きあいで自然と見えてくる私。一人で過ごしている時に、自然と見えてくる私。仕事をしている時に自然と見えてくる私。

響きは表情。私を包んでいる環境が違えば、私の響き方も違うし、だから色々な表情が自然と見えているのだと思う。つまり、一人の私の見え方は様々で、その様々の束としての私がいる。

高木さんは成長する中に「蓋をする」という言葉を使っている。生まれ立ての素朴な私をどんどん覆い隠してゆき、いつしか私を見失ってしまう。それは自分の内側にある響きを、響いている自分を外からの力で押さえつけて止めてしまうこととも言えるのではないだろうか。

2種類の力。内側から破る力はパワー、外側から破る力はフォース。卵の殻は内側から破れば生命が誕生し、外側から破れば生命は終わりを迎える。

私を取り巻く膨大な情報の洪水に流されてしまうと、いつしか内側の声に耳を澄ませることができなくなってしまう。もし、自分の内側の声が聞こえないと思ったら、まずは何もせず何も考えず、ただただぼんやりと空っぽになってみてはどうだろうか。

呼吸は呼が先で、吸うが後。息を吐けば吐くほど新鮮な空気が自然と内側に入ってくる。自らの心と書いて「息」と読むけれど、自分の声が聞こえない時には息が止まってしまっていないかと、意識を向けてみたい。

一つの自分、色々な自分。

禅の世界で言われるところの「一即多、多即一」とは「自分」そのものだと思える。「自分」とは、一人の私の色々な響き方のこと。

楽器を吹いていて思うのは、いつもいつも響くとはかぎらないということ。響かないこともあるし、そこで無理に響かせようとするともっと響かない。適度にリラックスしたほうが、自分と楽器が一つにつながって伸びやかに響く。だから自分自身との「つながり」を取り戻すために、まず身体の緊張をゆっくり時間をかけてほどきながら、穏やかな呼吸を取り戻してゆきたい。

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