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博士論文「音楽の海」

2006年にドイツ・ハレ大学に提出し、その後2012年にスイスのペーターラング社から出版された私の博士論文は、

13世紀のインドで書かれたサンスクリット語の音楽理論書『音楽の海』(サンギータ・ラトナーカラ)についてです。

この本の最初の章では、面白いことに、インド古典医学(アーユルヴェーダ)の理論に基づいて、人体の生成について述べられ、さらにヨーガの神秘的身体論(チャクラや気管制御など)が述べられます。

まず、人体の生成についての記述では、
胎生学つまり、
母胎内での受精卵の出現
微細な手脚の萌芽の出現
臓器(の元となるもの)の出現
など、妊娠後毎月のプロセス、さらに分娩が記されます。

胎内で胎児は、両手て両耳を覆い、両膝を曲げて、瞑想し、前世を想起している、のだとか。

胎生学の記述に続いて、解剖学が述べられます。
詳細は割愛しますが、アーユルヴェーダにおいては、食餌が消化され栄養液(ラサ)となって身体を作り、潤すプロセスに注目するので、新陳代謝のシステムについて、
また消化・新陳代謝により生成される、皮膚・血液・脂・肉・骨・髄などの、身体を包む七層の組織 (dhātu) について、
さらに、アーユルヴェーダの理論の根幹をなす3つの身体エネルギー、ヴァータ(風)・ピッタ(胆汁)・カパ(粘液)について、
骨格を形成する、さまざまな形の360種類の骨について、
などなど、網羅的に記されます。
(興味深いことに、身体の7つの層は、別の箇所で、オクターブの7つの楽音の生まれる場所、と言われます。)

このようにアーユルヴェーダの胎生学・解剖学の記述が終わると、
つぎに、ヨーガ(ハタ・ヨーガ)の神秘的身体論が述べられます。
身体の基層部(会陰部)から、頭頂まで、背骨に沿って並ぶ、チャクラと呼ばれる7つのエネルギー叢(そう)について。
チャクラとは、サンスクリット語で"車輪"という意味ですが、おそらくエネルギーの流れる管にできた結節のようなもので、車輪やロータスの花輪のような形をしているとされます。
(実はこの書『音楽の海』においては、通常の7つのチャクラに付加的なチャクラを3つ加えて、10個のチャクラがあるとするシステムなのですが、煩雑になるので、ここでは詳細を割愛します。)

ヨーガ修行では、基層部に眠った状態にあるシャクティと呼ばれる生命エネルギー(性エネルギー)を、覚醒させ、上昇させ、7つのチャクラを通って
頭頂まで引き上げ、頭頂にある梵孔 brahma-randhra (複数の頭骨が合わさっている隙間の部分)から、外に出して自由にしてやる、という作業を行います。
このエネルギーに、魂 ātman が乗って、一緒に頭頂の孔から身体の外に出る、このことを、解脱 moksha/mukti と呼んでいます。

頭頂から脱出すると、そこにはサハスラーラ・チャクラ(千のスポークを持つ車輪、千の花弁を持つ蓮華)と呼ばれる、絶大なエネルギー源があるのだということになっています。これに到達するのですね。

ただし、『音楽の海』のヨーガ身体論の後半は、チャクラ理論とは矛盾する別系統の、身体じゅうに網の目のように張りめぐる無数の気管、つまり呼吸(プラーナ)の流れる管、について記述されます。
つまり、2つの異なる伝承を、パッチワークのように継ぎ合わせてあるだけなんです。

魂は呼吸の風を乗り物として、
身体に網のように張りめぐる気管の中を、
あちこち移動する、
それは、蜘蛛が網の上を素早く歩き回るごとくである、
という面白い比喩を用いて、ヨーガ修行における
呼吸制御法を説明してあります。

さて、それでは、なぜ、音楽理論書で、身体論が扱われるのか?
という疑問が湧くのですが、
どうやら、
音響(nāda) つまり、声、が、身体の中で生まれるから、らしいです。

古代インドの神秘主義的言語論によると、宇宙は音響でできているのだそうで、
つまり、どんなものでも、未来永劫存続するものは無く、
現れては消えていく。
それは、音響が鳴り響いては消滅し、静けさの中に溶け込んでいくようなもので、
宇宙というのは、さまざまな音が鳴り響くcosmic sound 宇宙的交響楽のようなものだ、
と言うんですね。
アリストテレスの、惑星の音楽、によく似た考え方です。

この、宇宙全体に鳴り響く妙音のことをヨーガの用語でアナーハタ・ナーダanāhata-nāda (打たれない音響、潜在音)と呼びます。
この音は微細すぎて普通の人には聞こえませんが、ヨーガの修行の高い階梯に到達した修行者は、聴くことができるそうです。

『音楽の海』の、この、身体論を扱った章の結論は次のような趣旨です↓

アナーハタ・ナーダは一般人の耳には聞こえないが、
世俗的な音楽を聴くことによって、
高度な修行・瞑想の代替手段とすることができる。
一般人は、音楽を嗜んで、楽しみながら修行し、自由(解脱)を目指せば良い。

つまり、これが、この書物のテーマなんですね。

ヨーガ修行におけるアナーハタ・ナーダについては、またいずれ、別の記事で書いてみたいと思います。

書誌情報
Makoto Kitada:
The Body of the Musician. An Annotated Translation and Study of the Piṇḍotpatti-prakaraṇa of Śārngadeva’s Sangītaratnākara. 
Peter Lang, Bern 2012. 
https://www.peterlang.com/document/1052099



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