聖灰水曜日に小さな十字架を思う。
十字架を負って生きる。。。
きっと、なーんにも心に重荷を持たずに生きてるひとって、地球上にひとりもいないんじゃないかって思う。
もう40年以上まえになるかなあ。。。ハリストス正教会(日本にあるロシア正教会系の教会をこう言う)の奉神礼(礼拝や祈り)に出たあるひとが「司祭が、こういうお説教をしてた!」と教えてくれたことがあって。。。
それはね、ロシアの農村での不思議な出来事なんだけど。。。
ある晩、ひとりの農夫が森のなかで道に迷ってしまった。かすかな光にみちびかれて進むと、森の奥に木で出来た教会があらわれて。。。なかに入ってみると、そこには大きな十字架とそれを囲むように大中小さまざまな形をした無数の十字架が飾られていて、ロウソクの光に浮かび上がっていた。たくさんある小さな十字架を農夫がひとつひとつながめていると、おや、なんだか見覚えのある十字架がある! どこで見たんだろう? 思い出せない。。。でも、確かにこの十字架を知っている。。。そのときどこからか声がして、こう言ったんだって。「それは、あなたが負うようにとわたしがあなたに与えた十字架だよ。それを担ってわたしについて来なさい。」
今日の聖書の言葉。
自分の十字架は他人の目からみたら「小さな十字架」に過ぎないんだろうけど。。。でも、自分からしたらとても重くて担い切れないと感じる時もある。。。情けないよね。。。十字架を放り出せたらどんなにいいだろう、と思ってしまうこともあるんだ。
それに比べたら、イエスさまの十字架。。。その重さはとてもとてもはかり知ることができない。。。だって、全人類の罪を身代わりに負ったんだもの。
だけど、驚くべきことにイエスはその十字架を全部自分で担い切ることができなかった!
伝説では、イエスは十字架を負わされ、ピラトの官邸から処刑場のゴルゴダの丘を結ぶ「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)を歩かされたんだけれど、途中で力つき倒れてしまった。そこで、たまたま通りがかったキレネ人のシモンがその十字架を無理やり担がされたんだ。
受難週に巡る「十字架の道行き」の黙想の第5留はその場面を描いてる。
✠ 第5留 キレネ人シモンがイエスを助ける ✠
「全能者である神は、自分が持ち上げられない石を創造できるか?」っていう、いわゆる「全能のパラドックス」というのがある。
これを根拠に無神論者は、論理的に神はいない、と考えるんだけど。。。
でも、全能の神が人のかたちを取ってあらわれたのがイエスで、そのイエスは十字架を運びきれず倒れたというのであれば、「全能のパラドックス」は悲しみの光の中でクリアーに解決されているよね。
そして、ときどき思うんだ。。。イエスが運びきれずにキレネのシモンが負わされたあの十字架の「瞬間」が、神さまによって大中小ありとあらゆる無数の十字架に切り分けられて、われわれひとりひとりに授けられているんじゃないかって。そして「さあ、わたしと一緒に運んでくれ」ってイエスが言っているんじゃないか、って。
今日は聖灰水曜日(Ash Wednesday)だ。イエスの十字架を思う40日間の受難節が始まる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?