愛さない、愛します、愛する、愛すとき、愛せば、愛せ、愛そう、愛した。
自分のこころの中の愛が枯渇するように感じる瞬間って、けっこうあるんだよねー。源泉かけ流し温泉みたいにハートから愛がじゃぶじゃぶあふれ出て来ればいいんだけど。。。ハートのチャクラが目詰まりしてる? いや、そういう問題じゃないか。。。
今日の聖書の言葉。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13:34 新共同訳
イエスが愛したように、だれかを、愛する
イエスを愛するように、だれかを、愛する
「が」と「を」の違いがあるけれど、「が」も「を」も、そろったときに、ほんとうの愛し方ができるんじゃないかなあ、と思う。
じゃあ、どうやって愛すればいいのよ? どれぐらい愛すばいいのよ? ということになるんだけど、この点、新約聖書に書いてある「愛のリスト」を見るしかないよね。
超有名なコリント第一の手紙13章。。。愛の章、とも呼ばれてる *。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。
そこに定義されている愛は、あまりに崇高なので、自分的には、これはイエス・キリストのキャラクターを描写している、と思うことにしている。
だって、そう思わないと、やってられないんだもん。。。自分の中にはそういう崇高要素が不足してるから。。。
だから、いつも、愛をイエスに置き換えて、こう読んでいる。
イエスは忍耐強い。イエスは情け深い。ねたまない。イエスは自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。イエスは決して滅びない。
でもねー。。。なんでもそうやって、イエスまかせにして、自分はいいかげんにやってる、っていうのは、だめだよね。。。でもクリ、だめクリという嫌な言葉があるけど、それになっちゃう。
だから、ここはもう、蛮勇をふるって、愛のところに自分の名前をあてはめて音読するしかない。選手宣誓でもするみたいに!
オレは忍耐強い。オレは情け深い。ねたまない。オレは自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。復活のイエスに結ばれているオレは決して滅びない。
いやあ。。。読んでて気恥ずかしいのを通り越して、恐ろしくなってくる。。。どんだけ無理ゲーなのよ、これ。。。この基準に照らして周囲から客観的に評価されたら、絶対クリアできない自信あるし。。。
なので、ほんとにもう、日々、悔い改めるしかない。そして、十字架と復活のイエスを見上げて、祈るしかない。
自分の力じゃ、愛することなんて不可能なんだから、イエスが自分のこころに満ちてくれるように、イエスの愛が自分を満たしてくれるように、祈るしかない。何度でも、祈るしかない。
でも、祈るだけじゃなく、立ち上がって、扉を開いて、部屋から出て、「だれか」がいるところに行って、勇気をふるって、ダメもとでも、愛を実行するしかない。
だって、愛さなければ、愛はちっとも始まらないんだから。
イエスが愛したように、だれかを、愛する
イエスを愛するように、だれかを、愛する
註)
* Cf. コリント一 13:4-8
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