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世の終わりに備える:黙示録第1章

新型コロナの世界的な流行が続いています。日本以外の国でも第二波が来ているようですね。そこで最近よく聞くのは、世の終わりが近い、という言葉です。結構、牧師でも言っているひとがいます。しかし、本当に終わりが来ているのかどうか、早まった判断をくだす前に、やっぱりイエス様の言葉を心に留めなければいけないでしょう。

イエス様はマタイ24:6で、こう言われました。

気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

慌てずに、落ち着いて、よく考えて、ということですね。世界の終わりが来る前には、確かにいろんな予兆があります。しかし、予兆イコール終わり、ではないんですね。予兆があって、そこから終わりに行くまでに、かなりの段階を踏まなければならないのです。そのことが、マタイ24章や黙示録に書かれています。

聖書は、世の終わりを「生みの苦しみ」と表現しています。妊婦さんに最初の陣痛が来た時、その瞬間赤ちゃんが出て来るわけではないです。最初の陣痛はすぐ消えて、しばらくして、二度目の陣痛が来ます。それも、すぐ消えます。そして、三番目、四番目と陣痛が来ますが、だんだん時間の間隔が短くなってきます。最終的には、ひっきりなしに陣痛が来て、赤ちゃんが生まれるわけですが、そこまで行くのに10時間以上かかります。

古い世界が新しい世界を生み出すための生みの苦しみ。コロナのパンデミックも、そういう生みの苦しみのひとつかもしれません。でも、まだ最初のほうの陣痛ですから、これはやがて、消えて行きます。そして、今の世界の状況を見たら、ひっきりなしに陣痛が来て、いまにも生まれそうだ、というような状況では、ぜんぜん無いことがわかります。なので「まだ終わりではない」という、イエス様の言葉を心に入れて、落ち着いて、生活して行きましょう。

さて、聖書は、世界の終わりがどのように来るか、はっきり預言していますが、終わりが来るためには前提条件があることも、聖書は示しています。出産にたとえるならば、赤ちゃんが出て来る前提条件として、破水がありますよね。破水したら、いよいよだ、と思わなければなりません。世界の終わりについても、ある特定の条件が整わない限り、終わりは来ない、という前提条件があるのです。

今日はそのうちの3つを見たいと思います。

世界の終わりの第一の前提条件

第一の前提条件は、世界の終わりに際して、ユダヤ人の国がパレスチナに存在していなければならない、ということです。

その根拠となる聖句が、エゼキエル38:8です。

・・・長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。 

民というのは、ユダヤ人のことで、彼らが安全に暮らせる国が、パレスチナに出来ている、ということです。これについては、どうでしょうか? 

パレスチナには、ユダヤ人の国が存在していましたが、西暦70年のユダヤ戦争のとき、ローマ帝国によって滅ぼされ、生き残ったユダヤ人は全世界に離散しました。それから2000年近くの間、ユダヤ人は国を持たない民族として、世界を転々として生活して来ました。そういうユダヤ人の生活を描いたブロードウェーのミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』があります。日本では森繁久彌が主演を務めて、公演回数900回のロングランとなりました。ご覧になった方もあるでしょう。

図1:ユダヤ人の離散(ディアスポラ)の経路

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ドイツやポーランドに住むユダヤ人が、第二次大戦中にナチスによって虐殺されたことは、よくご存じだと思います。ナチスによる虐殺があまりにひどかったこと、そして、国際社会がユダヤ人を守れなかったことを反省して、国連の決議により、1948年5月14日にパレスチナの地にユダヤ人の独立国家「イスラエル」が建国されました。これは、人類歴史における奇跡と言われています。いまイスラエルには800万人のユダヤ人が生活しています。

図2:イスラエル独立宣言の様子

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世界の終わりが来る前提条件の一つは、パレスチナにユダヤ人の国が存在していることですが、いま、その条件は、満たされていますよね。ですから、私たちは世界の終わりに一歩近づいた、ということが言えるのです。

世界の終わりの第二の前提条件

第二の前提条件は、世界の終わりに際しては、エルサレムに神殿が再建されていなければならない、ということです。

その根拠となる聖句が、マタイ24:15-16です。

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

荒らす憎むべき者、と呼ばれる反キリストが、世の終わりに聖なる場所、すなわち、エルサレムの神殿に立つであろう、と預言されています。つまり、世の終わりに際しては、エルサレムに神殿がなければならないのです。これについては、どうでしょうか? 

図3:かつて存在していたエルサレムの神殿

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実は、国連の決議によってイスラエルが建国されましたが、古代イスラエルの首都であったエルサレムの扱いについては、非常に微妙な取り決めがなされたのです。ご存じのように、かつてエルサレムには神殿があったわけですが、西暦70年のユダヤ戦争で神殿は跡形もなく破壊されてしまいました。その神殿があったのが、エルサレム旧市街と呼ばれる場所です。

図4:西暦70年のエルサレム陥落の様子

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旧市街には7世紀ぐらいからイスラム教徒が住むようになり、かつて神殿が立っていた場所、神殿の丘と呼ばれる場所には、イスラム教のモスクが建てられ、エルサレム太守というイスラム教徒の役人が神殿の丘を管理するようになりました。実は、神殿の丘は、いまなおイスラム教徒の管理区域となっています。ですので、今もユダヤ人が神殿の丘に足を踏み入れることは、禁じられています。そのわけは、1948年に国連決議でイスラエルが建国された時、エルサレム旧市街だけは国連による国際管理地域に指定されたからなんです。そこで、ユダヤ人は仕方なく、エルサレムの旧市街の隣りに、新市街という新しい町をつくって、そこに国会議事堂を置き、「イスラエルの首都はエルサレムだ!」と一方的に宣言したのですが、国際社会はそれを認めていません。

図5:いまの神殿の丘の様子

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これが、エルサレム首都問題という国際政治上の問題なのです。国連の立場からすると、イスラエルの首都は、あくまでテルアビヴです。イスラエルという国は再建されたけれども、エルサレム旧市街、特に神殿の丘は、いまだにユダヤ人のもとには戻って来ていない状態なんですね。ユダヤ人の悲願は、かつて2000年前に存在していた「神殿」を、もとあった場所、神殿の丘に再建することですが、現状では、ユダヤ人は一歩も神殿の丘に入れません。

このように、エルサレムに神殿が存在していない事実は、世界の終わりが来るための大きな前提条件が欠けていることを意味しています。もしかしたら私たちが生きている間に「神殿が再建され、その献堂式が華々しく挙行されました」というニュースが、テレビやネットで伝えられる日が来るかもしれません。しかし現状では不可能です。もしユダヤ人が無理やり神殿の丘に立ち入って神殿を再建しようとしたら、ユダヤ人は全世界のイスラム教徒を相手に戦争しなければならなくなるでしょう。そんな無謀な選択を、いまのイスラエルがすることは、とても考えられないのです。

世界の終わりの第三の前提条件

さて、第三の前提条件があります。世界の終わりが来るに際して、古代都市バビロンが再建されていなければなりません。それが最大にして最後の前提条件です。

その根拠となる聖句が、黙示録18:10です。

彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。 「不幸だ、不幸だ、大いなる都、 強大な都バビロン、 お前は、ひとときの間に裁かれた。」

彼女、というのは、擬人化された都市バビロンです。世の終わりに際しては、バビロンが世界最強、最大の巨大都市になっていることが、預言されています。

バビロンというのは、古代バビロニア帝国の首都であった都市です。バビロニア帝国は紀元前586年にエルサレムを破壊し、それにより、ユダヤ人が70年のあいだバビロンに捕囚されたことが、旧約聖書に記されています。しかし、バビロニア帝国がペルシャ帝国に取って代わられてからは、バビロンは衰退して小さな地方都市になってしまい、ついには砂漠の砂の下に埋もれて、地上から姿を消してしまいました。イザヤ書47章以降に、バビロンは永遠の廃墟となる、と預言されていますが、その通りになったんですね。

図6:古代都市バビロンの復元図

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いまイラク政府は、バビロンの跡地を考古学上の世界遺産にして観光客を呼び込もうとしています。しかし黙示録を読みますと、バビロンは世界最大の都市として栄耀栄華を誇る、と預言されています。現状のバビロンは、砂漠の中に日干し煉瓦の城壁が復元されているだけの状態ですが、もしかしたら、いまは砂漠にすぎないバビロンに、将来的にドバイのような高層ビルが林立する現代的な都市が作られるかもしれません。しかし、いまのイラク政府は、イスラム国ISISとの戦いや、イランから送り込まれて来るシーア派のテロ組織との戦いで、疲弊しきっています。とてもバビロンに巨大都市をつくるような構想も体力も、イラク政府には無いでしょう。

図7:遺跡発掘中のいまのバビロン

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まだ終わりではない

たしかに、私たちは新型コロナの世界的流行で、世界の終わりが近いと感じるかもしれません。しかし、エルサレムの神殿も巨大都市バビロンも再建されていないという、大きな前提条件が二つ欠けている状態ですから、やはり、あわててはいけません。「まだ終わりではない」というイエス様の御言葉を受け止めて、落ち着いて生活して行きましょう。

さて、世の終わりに備えるために、私たちに与えられた指針が黙示録です。今日は導入的なお話をしましたが、最後に黙示録1章から短く見ておきたいと思います。

3節「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されていることを守る人たちとは、幸いである。時が迫っているからである」 

「時が迫っている」と言われていますね。まだ終わりではないけれど、時は迫っている。ここから、ブルームハルトは「待ちつつ急ぎつつ。それがクリスチャンの姿勢だ」と言いました。「待ちつつ急ぎつつ」やっていきましょう。

5節「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」 

ここには、終わりの時代における、私たちとイエス様との関係が、示されています。

この終わりの時代にあって、私たちは何者でしょうか? 

第一に、イエスによって愛されている者です。それが、私たちです。

第二に、十字架によって、罪をゆるされ、罪から解放された者です。それが、私たちです。

第三に、キリストにあって王とされている者です。それが、私たちです。

私たちは、世の終わりの状況の中で、流されて生きる無力な存在ではありません。キリストと共にあらゆる状況を支配する王である、それが私たちだ、と言われているのです。ぜひ、そのような信仰の姿勢を、持たせていただきましょう。祈りましょう。


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