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度量が問われる。。。

コロナ禍なので、自分が属している教会は、みんながあつまっての礼拝をずっと休止してたんだけど、先々週からZoomをつかったオンライン礼拝をするようになった。

こないだの日曜は自分がメッセージの当番だったから、おもいきって、黙示録から話させてもらった。というのも、「もう世の終わりだ!」と嘆く声が、身近なところからしょっちゅう聞こえて来るので、ちょっと待って、落ち着いて、水でも飲んで、深呼吸して、って言いたいと、ずっと思っていたんだ。

Zoomによる礼拝をはじめる前は、いろんな教会がYouTubeにあげてる礼拝の動画を、けっこう見てた。たいへんだなあ、と思ったのは、ロシア正教会のそれだ。

オーソドックスチャーチと呼ばれるロシア正教やギリシャ正教では、聖体機密(ミサのこと)のとき、ブドウ酒のなかにパンをひたして、それを聖匙(ルジーツァ)という金属製のスプーンですくって、信徒の口に流し込む、ひとりずつ。。。つまり、同じ一本のスプーンを、礼拝にあつまった全員で共有するわけ。。。

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まあ、アルコールで消毒されるから、同じスプーンでいいのか、と思うんだけど、でも、教会の中に、ぜったい馬の合わない人とか、ちょっと腹を立ててる人とか、いるじゃない? そういう人の次にならんで、同じスプーンでご聖体(バンとブドウ酒)を口にできますか、ってこと。

これって、キリストにあって、ほんとうに心から愛し合っていないと、ぜったいできないことだよな。。。とプロテスタントの自分は、思ってしまう。

今日の聖書の言葉。

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:15 新共同訳

このコロナ禍で、さすがに一本のスプーンでやるのは、感染予防上、問題視されたみたい。こないだ見たべつの正教の動画では、木製の使い捨てスプーンを、ちゃんとひとりずつ取り換えながら、ご聖体を授けていた。。。

なので、ほっとしたんだけど。。。と共に、なんとなく、ちょっと、さびしい気持ちもおぼえた。。。

そして、だいぶ前に何かの図録集で見た、古いヨーロッパの宝物庫に保管されている「象牙のプレート」のことを、思い出したんだ。それは、四角い象牙の板が、銀の飾りぶちで囲まれてるもの。手で持てるぐらいのタブレットのサイズだ。

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初代教会から古代の教会までは、礼拝にあつまったクリスチャンたちは、お互いに「平和がありますように!」とあいさつをかわすとき、口づけをしたんだ。男同士でも、口と口でキスをしたんだよ! これを「平和のあいさつ」という。

でも、時代がたって、中世の教会になると、口づけをやめた。。。まあ、やめたい気持ちは、日本人である自分は、よくわかる。。。なので、口づけをする代わりに「象牙のプレート」にキスすることにしたんだ。みんなが順番にプレートにキスをして、それをもって「平和のあいさつ」とする、と。だから、そのプレートはラテン語で「パックス」(平和)と呼ばれた。

ところが、近代の教会になると、プレートに交代でキスするのも、はばかられるようになって、代わりに、おたがいにハグや握手をするようになった。これは、欧米の教会では、つい去年まで、ふつうにみられた光景。

そして、今年。。。このコロナ禍で、ハグも握手も厳禁になった。

そこで、聖公会のある教会は「平和のあいさつ」の代替案を、次のように提案している *。

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礼拝にあつまり、あなたに平和がありますように、という思いを込めて、手をふる。おじぎする。手を合わせる。ひじを、足を、突き合わせる。。。

ちょっと苦手な人。。。ちょっと腹を立ててる人。。。距離を置きたい人にも、平和がありますように、という思いを込めて、手を合わせる。。。

でもなあ。。。おれの信仰って、生ぬるいよな、と、思ってしまう。。。だって、同じスプーンを全員で使いまわしてる、タフなクリスチャンが、いる(すくなくとも今年の3月頃までは、いた)わけじゃん。。。

それを受け容れられるぐらいの度量が、愛が、おまえにあるのか。。。と問われているような気がして、もうね、正教の動画を見るのは、やめた(笑)

そして、ひたすら反省している。。。「キリストの平和があなたがたの心を支配する」とは、どういうことなのか。。。この宿題を考え続けている。

註)
* 米イリノイ州グレンエリンの聖マルコ聖公会のウェブサイトより。


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