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神が死ぬということの重さ、というか、オソロシサ。。。

うわーん、死んでやるーっ、って、泣いて騒いで、ひっかきまわしたあげく、死なない、っていう。。。

そういうのを、死ぬ死ぬ詐欺、って言うんだけど。。。

その点、イエスは、すごいよなあ、と思う。

だって、言うだけでなく、ほんとうに死んだんだもの。。。

今日の聖書の言葉。

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
ヨハネによる福音書 10:11 新共同訳

イエスの死を、悪魔の観点からながめてみたら、どいうことになるんだろうね。。。

ちょっと考えてみた。

天地万物を創造した神。

その神によってつくられた天使的存在として、神に仕えていた悪魔。

悪魔はもともと善良な天使だったんだけど、なぜか「オレって神よりスゴイんじゃね?」と勘違いをして、神に離反し、悪魔になってしまった。

まあ、よくある種類の勘違いかもねー。

悪魔のメインの活動は、神のつくった世界を広く回って、リクルート活動をすること。。。

「ねえ、きみも神についてはいろいろ気に入らないことがあるだろ? オレたちと仲間になって、一緒に戦おうじゃないか。力を合わせれば、神を倒すことだって不可能じゃないんだぜ!」って。

で、会員番号1番のアダム以来、多くのメンバーが加入しているわけなんだけど。。。

その悪魔にとって、またとないチャンスがやってきた!

なんと、万物の創造者である神が、ナザレの大工のせがれの姿に身をやつして、ひょろひょろと地上に現れたんだ。

いった何を考えているんだ、神は?!

悪魔が注意深く観察していると、どうもイエスは、何をされても、何を言われても、抵抗する様子がない。

しめたっ、と思った悪魔は、配下の政治的統治者たちを動員して、イエスを追い込み、捕縛し、形だけの裁判を行って、死刑にすることに成功した!

イエスがゴルゴダの十字架で絶命した瞬間、どれほど悪魔はよろこんだことだろうね。だって、長年の宿敵である「神」を殺して、亡き者にできたんだから。

こうして、宇宙はすべて悪魔のものになる、はず、だった。。。

ところが、イエスは三日目に復活し、そして、イエスにおける「神」は、悪魔に対して奇妙な主張を展開し始めたんだ。

こういう主張だ。

神: 悪魔が権利を行使できるのは、神に敵対する人間たちのあいだ「だけ」だよね? で、人間っていうのは、生きてる人間だけだよね? だって、人間は死んだら、塵にかえっちゃうんだからさ?

悪魔: はい。

神: ところで、こないだイエスが死んだけど、じつは、イエスのなかに全人類を含め入れてカウントしておいたんだ。だから、そのつもりで、よろしくね。

悪魔: はいっ?!

神: だからさ、イエスが死んだとき、全人類も死んだ、というふうに神サイドではみなしているから。ちょっと無理があるかなー、とも思ったんだけど、神が命かけてやったことなので、一方的だけど、決めさせてもらったよ。で、これが、どういう意味になるか、わかるよね?

悪魔: えっ? ちょっ、まっ。。。

神: 全人類が死んだということは、キミは全人類への権利を喪失したことになるわけだから。そこんとこ、ヨロシク。あと、言っておくけど、イエスが復活したとき、全人類もそこに含め入れて、全人類も復活した、と神サイドではみているので。なので、今後、キミは永久に全人類に手出しできないことになってる。

悪魔: えーっ、そんなーっ。。。

つまり、神がイエスにおいてしかけた「ワナ」に悪魔は、まんまとひっかかった、ということになる。

ワナにかかった悪魔。。。

5世紀の教父であるアウグスティヌスは、こういう意味のことを言っている。神は釣り針で悪魔をみごとに釣り上げた。その釣り針についていたエサがイエスだった!*

イエスの身体は神性という針先についているエサで、悪魔はそれにひっかかった、というセオリーを説くのは、ほかにもニュッサのグレゴリオス、証聖者マクシモス、ダマスコのヨアンネスなど、名だたる教父たちがいる。**

うーん。。。この表現。。。教父だから許されるけどさ。。。

青草の上に座った弟子たちと群衆に向かって「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とイエスが語りかけたとき、たぶん、悪魔は油断して聞き流していたんだろう。

イエスが死ぬことが持つ意味がどれほど重いか、っていうことに、残念ながら頭が回らなかったのだ。

やっぱり「オレって神よりスゴイんじゃね?」というのは大いなる勘違いだった、ってことなんだろうねー。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう
コリントの信徒への手紙一 2:8 新共同訳

十字架は、キリストの個人的勝利である。これにより、キリストは、天使的諸力の支配権を足下に置くに至った。キリストは、その肉の体を脱ぎ捨てることにより「もろもろの支配と権威の武装を解除し」(コロサイ2:15)、それらの諸力がキリストに対して用い得る唯一の武器を取り上げてしまった。しかし、十字架はまた、集団的勝利でもある。キリストが、罪深い人類と同一化して、へりくだったことにより、人類はキリストの義と勝利とに自らを同一化することが可能となった。
G.B.ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』オックスフォード大学出版部、1956年、pp.92-93.

註)
* 「しかし、贖い主が来て、誘惑者は打ち負かされた。私たちを捕らえていた者に対して、私たちの贖い主は何をしたのか? 私たちの身代金として、彼は十字架を罠として差し出し、その中に血を餌として置いた。」
アウグスティヌス『説教』130:2(Augustine, Sermon CXXX part 2)
**  The Divine Bait in Classical Christianity - Eastern Orthodoxy for Today


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