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栄光という名のストーリー

聖書にでてくる「神の栄光」というワードは、とても興味ぶかい背景をもっている。

ユダヤ人は、神の超越性と絶対性をどこまでも確信していたので、神がダイレクトにおでましになると、世界が壊れる、と考えていたふしがある。ノアの大洪水とかは、おそらく、そういうことなんだ。。。

なので、神が直接おでましになるのでなく、神から出た「神の栄光」が、おでましになる、と考えようとしていた。この考え方が顕著なのが、ヘブライ語の聖書をアラム語に訳した『タルグム』だ。そこでは、ことごとく神を、神の輝き (イェカラ)、神のことば (メムラ)、神の栄光 (シェキナー) に置き換えて訳そうとしている。。。つまり、どうも、神が単体で動くことを、思考的に回避したかったみたいなんだ。

後期ユダヤ教(第二神殿時代のユダヤ教とも言う)では、この「神の栄光」をシェキナーと呼んだ。意味は、神が人間の目に見える輝きというかたちで、人間のあいだにとどまること。もとの語意は「とどまる」で、そこから転じて「神の栄光」になった。

興味深いことに、後期ユダヤ教では、神から出た「神の栄光」も神である、と考えられていたふしがある。また、神から出た「神の聖霊」も神である、とも。これって、なんか、父から出た子は神で、父と子から出た聖霊も神、という三位一体の考え方に似ている。もしかしたら、三位一体論というのは、ギリシャの論理学から出てきたというより、後期ユダヤ教となめらかに連続している、と考えたほうが良いのかもしれないね。

神が世界を壊してしまわないために、優しめの姿で到来する「神の栄光」なんだけど、しかし、それでもやはり、「神の栄光」にじかに触れると、人間は死んでしまう。。。なぜって、人間は、あまりにもろく、また、いろいろやらかして、罪ふかい存在であるがゆえに。。。

なので、「神の栄光」が出現するときに、かならず周囲を密雲が覆っているんだ。密雲が栄光の度合いを緩和することによって、それに触れた人間が死なずに済むという。。。コワイ。。。

この「神の栄光」は、旧約聖書のあちこちに出て来る。なので、旧約聖書のほんとうの主人公は「神の栄光」だ、という考え方もできると思う。なぜって、シナイ山に降ってモーセに律法を授けたのは「神の栄光」だし、ソロモンが献げた神殿に満ちたのも「神の栄光」だし、イザヤに預言者の召命を与えたのも「神の栄光」だし、エゼキエルにあらわれた恐ろしい神の戦車が運んでいたのも「神の栄光」だからねー。

つまり、旧約聖書とは、「神の栄光」が、いかにイスラエル・ユダヤの人々に、あらわれ・語りかけ・働きかけ・そして・去って行ったか、というストーリーだ、と捉えることがきるんだ。

「神の栄光」が去って行った。。。エゼキエルが目撃しているんだけど、イスラエル・ユダヤの人々の背きの罪のために、ついに「神の栄光」は神殿を去って、どこかへ消えてしまうんだ。エゼキエル書10章にそれが記されている。その結果、エルサレムも神殿も、バビロンによって破壊され、人々は捕囚となってしまう。

70年の捕囚がおわって、ユダの長老たちがエルサレムに帰還し、神殿の再建に着手し、紆余曲折を経て、ついに第二神殿が完成する。そこまでに到る様子がネヘミヤ記、エズラ記、ゼカリヤ書、ハガイ書で描かれている。この第二神殿が出来たあとのユダヤ教を、後期ユダヤ教とか第二神殿時代のユダヤ教と言うんだけど、すごい興味ふかいことに、後期ユダヤ教では、あのエゼキエル書10章で「神の栄光」が去って以来、それは神殿に戻っていない、と考えられていたらしいんだ。

去ってしまった「神の栄光」は、なぜ、戻って来ないのか? それは、人々の罪が、贖われていないから。。。

今日の聖書の言葉。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙 3:23-24 新共同訳

最高に興味ふかいのは、なんと、新約聖書は「神の栄光」をイエス・キリストと同一視している、ということなんだ。端的にそれを言ってるのが、ヘブライ書だ。

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
へブル人への手紙1:3-4 口語訳

御子とはイエス・キリストのことだけど、ユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたこの手紙では、ユダヤ人にとっておなじみの、あの「神の栄光」とは、イエス・キリストだよ、と冒頭第一で宣言してる。しかも、後期ユダヤ教のラビたちが考えていた、神から出た「神の栄光」は神、という思考のラインに沿うように、イエス・キリストこそ神の本質の真の姿であって、つまりイエスは神だから、イエスは万物をその力で保っている、とまで言っている。

イエス・キリストが、あの旧約聖書に出て来る「神の栄光」なのであって、「神の栄光」がクリスマスにベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけに赤ん坊の姿を取って降りて来られたのだ、ということを受け容れるとして。。。じゃあ、ひとの姿となった「神の栄光」は、何をしたのか、というと。。。

罪のきよめのわざをなし終えた!

。。。とへブル書の著者は言っている。これは、イエス・キリストが、十字架にかかり、命を代償とすることによって、人類の罪科を帳消しにしてくれた、つまり、贖ってくれた、ということなんだ。

これを、今日の聖書の言葉に、あてはめてみよう。。。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。

わたしたちは、いろいろ人生でやらかして、罪ふかい者であるから、「神の栄光」に触れられると、死んでしまうしかなかったんだけど、なんと「神の栄光」であるイエス・キリストが、十字架で命を代償とすることにより、われわれの罪科をぜーんぶ帳消しにしてくれた。。。神の目でみて、罪のない者、という扱いのくくりに、われわれを入れてくれた。。。だから、われわれは「神の栄光」であるイエスに、触れられることができる。。。結ばれることができる。。。ひとつとなることができる。。。そして、イエスの栄光にあずかることが、できるんだ。

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
ローマの信徒への手紙5:2 口語訳

イエスによって贖われたわれわれは、イエスの栄光にあずかり、イエスが光かがやいているように、われわれも光に変えられて行く。

光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。
ヨハネによる福音書12:36 口語訳

さてねー。。。問題は、ほんとうにイエスは「神の栄光」だったのだろうか、ということだ。

実は、イエスは、いちどだけ「神の栄光」としての姿を、弟子たちに見せたことがあったんだ。。。それが、福音書に記録されている変貌山の出来事だ。それを読むと、たしかにイエスのからだが太陽のように輝いて、密雲がイエスを覆ったことが、報告されている。

彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。。。
。。。たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」
マタイによる福音書17:1-2, 5 口語訳

なので、変貌山の出来事は、復活と同等か、あるいは、ある意味、それ以上の重要性を持っているのではないかと思うんだ。


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