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みんなに会えないとき、どうする?

コロナ禍のため、クリスチャンたちが教会にあつまることがむずかしくなって、8か月以上になろうとしている。

その間、YouTubeやZoomを使った礼拝など、いろんな試みが行われてきた。夏がおわると感染が少し落ち着き、物理的にあつまっての礼拝を再開する教会が、少しずつ出てきていた。

。。。のだけれど、ここにきて、全世界的に感染者数が急増。ヨーロッパやアメリカでは、近々またロックダウンに踏み切るところもあるみたい。

第二波、第三波が来ることは、予想されていたけど、やっぱり、まだまだ、みんなが教会にあつまるにわけにはいかないのかー。。。と、せつない気持ちになるよね。

今日の聖書の言葉。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書 18:20 新共同訳

礼拝というのは、そこにイエスさまの臨在があって、そのイエスさまに触れることだ、と自分は思っているんだけど、今日の聖書は、二人または三人がイエスの名によってあつまるところに、イエスがいっしょにいてくれる。。。臨在がある。。。と言ってる。

社会的隔離が要請されるウィズコロナ時代にあって、じゃあ、オンライン礼拝のモニターを挟んだ、あちら側にいる一人と、こちら側にいる一人は、あわせて二人としてカウントされるんだろうか? で、二人の間にイエスさまがいる、という場合、モニターのあっち側? こっち側? 真ん中? 両方? と、いろいろ考えちゃう。

さらに問題なのは、オンラインで聖餐式をやる時だよね。クラッカーとブドウジュース(こないだ、干しブドウでやった、という人がいたよ!)を用意して、福音書から「主の晩餐」の聖句を読み、祈りをささげ、つつしんで食してしまうという。。。これって、物理的にクリスチャンがひとつの場所につどわない限り、聖餐式として成立しないはず、という意見もあるみたい。

しかし、聖書をよく読んで行くと、クリスチャンというのは、なんと、空間の制約を超越できてしまえるように書かれているところが、あるんだ。

これだ。

わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。 
コロサイの信徒への手紙 2:5 新共同訳

これが、ほんとうなら、さ。。。二人または三人が、空間的にどんなに離れていたって、簡単に飛び越えて、霊において、いっしょにつどうことができるんだよ! ということになる。そして、クリスチャンが空間を超越しているんなら、もちろん、イエスは、もっと空間を超越しているんだ。

だから、みんなとモニター越しにしか会えない期間が、まだしばらく続くとしても、もうね、なんにも心配しないことにしよう。

わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて
あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て
喜んでいます。 

どんな空間の隔たりも、わたしたちから喜びを奪い取ることは、できないんだ。さあ、軽々と、飛び越えて行こう!


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