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ただほどこわいものはない、っていう話です。

これ、ただですー、って言われると、ついつい、うらに何かあるんじゃないか、って警戒してしまう。

ただほどこわいものはない、ってよく聞くけど、経済学万能のいまの時代にあっては、ただで回るものなんて、基本、絶無なわけであって。。。

そう言うと、ネットサービスは無料じゃないか、って声もあることは、ある。

Facebook、Twitter、Instagram、Google、YouTube、みーんな無料じゃん! って言われれば、確かに無料だ。。。

でも、それらのユーザーの閲覧や検索や投稿が AI (人工知能) によって分析されて、ユーザーの属性に最適化した広告コンテンツが配信されることで、消費行動が誘導されるんだよね。

で、広告コンテンツには企業が費用を払ってるわけだから、ネットサービスって、やっぱり無料じゃないんだよ。

しかも、企業は販売する商品の価格に広告費用を上乗せするわけだから、結局、ユーザーは消費行動を通して間接的にネットサービスの費用を支払ってることになる。

そう考えると、世界に「ただ」のものは、ほんとうにないのかもしれない。

もちろん、光、空気、水とかは、かぎりなく「ただ」に近い気もするけれど、国によっては月に十数万円も水道代を払わされるところが出てきているから、だんだん、ただ、ではなくなってきているよね。

そう考えると、さびしい。。。

今日の聖書の言葉。

さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
イザヤ書 55:1 新共同訳

しかし、この自然の世界に「ただ」は絶無だとしても、超自然の世界には、もしかしたら「ただ」のものが、あるかもしれない。

いや、あるにちがいない。

今日の聖書の言葉なんか読むと、うん、あるかも、って思えて来る。

もちろん、超自然の世界と言っても、聖書以外にも、いろんなメニューが世界にはある。

それらのひとつひとつを見てみると、確かに超自然ではあるなー、と思うんだけど、提供されている何かをゲットするのに、何らかの代価が求められる場合が多いんじゃないだろうか。

たとえば、特定の血筋に生まれないといけない、とか、体の一部を切除しないといけない、とか、一回死んで男に生まれ変わらないといけない、とか、毎月のノルマをこなさないといけない、とか。。。

それって、ぜんぜん、ただじゃないじゃん!

ところが新約聖書は、全人類の過去・現在・未来におけるすべての罪過を帳消しにするための代価を「神」が一回で全部支払った、という主張をする。

それがイエスの十字架だ。

永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。それがイエスで。。。

イエスは十字架で死ぬことによって「神」のいのち(それは無限の価値を持つ)を代価として支払った。

この方法により「神」は、悪魔の抗議を完全に無視して、全人類に罪の赦しと永遠のいのちを与えることができるようになったんだ。

悪魔っていうのは、人間の側に1円でも負債があったら、その人間の魂を要求する正当な権利が自分にある、という主張をする存在なんだけど。。。

イエスの十字架は、その悪魔を完全に黙らせたんだよね。だって、無限に価値のある「神」のいのちを一回でぜーんぶ使い切ることで、全人類の罪の代価を支払い終えたわけだから。

しかもイエスは三日目にちゃっかり復活して「神」を続行した。

なので、結果的には悪魔はまんまと「神」に騙されて、すべてを失い、すっからかんにされた、というふうに言うこともできるわけなんだけど。。。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
コリントの信徒への手紙一 2:8 新共同訳

このため、新約聖書では悪魔は完全にオワコン(終わったコンテンツ)扱いになっている。

そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
コロサイの信徒への手紙 2:15 新共同訳

おかげで、いまや、われわれは代価を払うことなく、ほんとのほんとに「ただ」で罪の赦しと永遠のいのちをゲットできるようになっているのだけれどねー。。。

いや。。。ここまで書いてみると、やっぱり、ただほどこわいものはない、っていう気がしてきた。。。

なぜなら、そうまでしても救いたいという「神」の狂おしいほどの愛が、うらにあるわけだから。。。

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