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#セカイノオワリ or #きみセカ or キリスト?

世界は、どのように終わるのか?

それを考える作業を「終末論」(Eschatology)って言うんだけど、それって、見た目、おっかないよね

だって、世界が終わっちゃう、と言うんだから。。。

終わらせ方、については、ほんと、いろんなバリエーションがある。日曜のゴールデンタイムに放送されるゾンビ・サバイバル・ドラマとして本邦初となる「#きみセカ」も、広い意味で終末論のひとつだ。

仏教やヒンズー教では、すべての生命が永遠に輪廻を繰り返して行くので、そもそも、終わりを考える必要が無い。

でも、ユダヤ教やキリスト教の場合は、創造主が、有限な世界を創造した、と考えるので、そこから、世界には限界がある、つまり、世界には始点と終点がある、と考えることになるんだ。

始点と終点に挟まれた、いま。。。

始点と終点に挟まれた世界の内部では、時間が進行していて、時間軸上にいる自分は、つねに始点を離れて終点に向かっていることになる。

そうであるなら、自分が生きている地点と終点とのあいだの距離を、特定できることになるよね。

自分と終点とのあいだ。。。

その距離を、どう考えるか、によって、「世界の終わりは明日にも来る」と感じるのか、「世界の終わりは30年後に来る」と感じるのか、「世界の終わりは1万年後に来る」と感じるのか、バリエーションが生じることになる。

今日の聖書の言葉。

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。
イザヤ書 55:6-7 新共同訳

おもしろいことに、新約聖書は、この、世界の始点と終点、という枠組みを、イエス・キリストの初臨と再臨、という枠組みに、置き換えてしまったんだ。

イエスは、世界に到来して、十字架と復活のをわざを行い、人間の救いを完成した。。。それが「初臨」だ。

そして、その救いに、すべての人間があずかった瞬間、イエスはふたたび、世界に到来する。。。それが「再臨」だ。

すると、いま自分が生きている位置は、どこか? というと、イエスの初臨から再臨へと向かいつつある「いま」にある、ということになる。

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
コリントの信徒への手紙二 6:2 新共同訳

イエスの初臨と再臨のあいだの「いま」においては、わたしたちは悔い改めさえすれば、何度でも、赦されて、ほんとうに何度でも、赦されて、変えられて、新しくなることができるんだ。

この世界観を信じることができるなら。。。自分は、世界の終わりに向かって生きている、と言うかわりに、こう言うことが、できるんだ。

イエスは十字架と復活によって、救いを完成してくれた。その救いの上に、自分は立って、前に向かって生きて行く。顔と顔とを合わせてイエスに会うために。イエスは両手を広げ、未来のかなたで待っている。その瞬間に向かって、一歩、一歩、自分は今日も進んで行く。

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