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聖書に赤線を、引くべきか、引かざるべきか。。。悩む

クリスチャンで、いわゆる、神さまから「示された」という聖書の箇所に、赤鉛筆で線を引くひとが、いる。

赤鉛筆だけでなく、ボールペンで引き、蛍光ペンで引き、さらに重ねて、ラメ入りペンで引くひとも。

いちど、聖書のすべてのページのすべての文字に、すべて線を引いてる聖書を見せてもらったことがある。。。ほんと、ぜんぶ引いてあるんだ。。。それだと、線の意味、無いんじゃね? って思うけど(笑)

今日の聖書の言葉。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
ルカによる福音書 16:10 新共同訳

ここ「だけ」に線を引いて、ここ「だけ」に思いを巡らしたならば。。。きっと、出て来る結論は、「小さな事に忠実に! きょう自分に任された、こまごまとした事に、心を込めて、丁寧に取り組もう!」という、道徳的な教訓になるんじゃないかと思う。

でもね。。。この箇所の直前では、じつは、こう言われているんだ。

わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ルカによる福音書 16:9 新共同訳

これは、イエス自身が言ってる言葉だ。「わたし」というのは、イエス。そのイエスが、こう命じるんだ。

不正で得たお金で、ひとに親切をして、友だちを作りなさい。やがて、あなたが一文無しになった時、その友だちが、あなたを天国に迎え入れてくれるから。

このイエスの言葉を、額面通り受け取るなら、不正をしてでも、ひとに親切にしておけば、結果、永遠の救いが得られるよ! という意味になるよね?

これって、日本人的な感覚で言う「ちいさな事に忠実に!」という生真面目さから、ずいぶん、かけ離れてるんじゃないかと思う。

聖書に赤鉛筆で線を引くことは、だから、危険でもあるんだ。

だって、線を引くと、そこだけ、前後の文脈から切り離されて、なんだか、ぜんぜん違う意味を帯びてしまうことが、あるんだもの。

今日の聖書の言葉なんか、まさに、その代表格。

それにしても、イエスが言いたかったことって、なんなんだろう?

小さなことに忠実に。。。それ自体は、わかりみが深い。べつにキリスト教じゃなくったって、日本人なら普通の感覚として持っていると思う。

それをふまえて、考えてみる。。。

小さなことに忠実に、と、同じぐらい大切なのは、できるだけ、ひとに親切にして、友だちを作ることだ。。。まあ、これも、そう言われれば、そうだよね、というレベルで、わかる。

問題は、その先だ。

じゃあ、どれぐらい、親切にすればいいの?

イエスの答えは、「不正をしてでも」親切にしてやれ、だ。

あー、ダメ。。。ここで、多くの日本人は、立ち止まってしまう。。。

だって、不正は、だめでしょ? けじめをつけないと! 不正とか、絶対に認めちゃ、だめ。。。それが普通の感覚だよなあ。

もし、イエスの答えが、「多少大目に見てでも」親切にしてやれ、というぐらいだったら、まだ受け取り易いんだけど、さ。

あー、アイツ、不織布マスクじゃなく、ウレタンマスクしてる。けしからん! 注意してやろう! いや、でもなあ。。。イエスが言ってたっけ。「多少大目に見てでも」親切にしてやれ、って。。。そうだな。まあ、今回は黙っているか。。。そして、にっこり微笑んであげよう。。。

それぐらいのレベルの親切だったら、自分にもできる、と思うんだ。

でも、イエスは、それでは満足しない。。。そのレベルを、超えて行け、って。オマエの狭い常識を超えたレベルの親切を、大胆に見せてみろ、って。

それは、イエスから自分への、すごいチャレンジだ。

なので、やっぱり、聖書に線を引くのは、コワいよ。。。

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