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限界を超えて行く、十字架を担って行く

熱心に取り組んだけど力足らずで断念せざるを得ないとき。。。

「ここまでか」と思う。

そう思い定めた地点が自分の限界になる。

そうなったら、その先に手を伸ばしたくても、もう届かない。

限界って、考えて見たらいろんな種類があるよね。

時にそれは欠品や欠配、悪天候、体調の悪化だったり、人手や資金の不足、首を振らない同僚や上司、理解不能な他者の妨害、コロナによる自粛や自然災害だったり。

ほんと、いろいろ。

これらは、コントロール不能な要素ばかりだ。そういう意味ではマイナスの「力」だよね。

逆に、あきらめたはずなのに不思議な展開が起きて、限界が超えられ、自分の思いや願いが実現する体験をすることもある。そういう時は奇跡だ! と思っちゃうけど、これは、自分を完全に超えているという意味でプラスの「力」と言えるかもしれない。

今日の聖書の言葉。

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
詩編 18:2 新共同訳

世界にはマイナス要素とプラス要素がせめぎ合ってる。

どういうきっかけでそれがマイナスに振れるのかプラスに振れるのか、謎なわけだけど、その謎の感覚って有史以前から人類に普遍的にあったんだろう。そして、その謎の探求から祈りが始まり、それは、宗教の営み、哲学の営み、科学の営み、スピリチュアルの営みとなって、いまに至るんじゃないだろうか。

そういう意味で、聖書って世界を動かす謎の要素についての探求の書ととらえることも出来ると思う。

そんなことを考えながら、聖書を見ると。。。

旧約聖書の前半では、世界におけるプラス要素もマイナス要素も、創造者である神がすべて統御している、というふうに描かれる。この見方が典型的に出てるのが、サウル王を悩ませた「主からの悪霊」という表現だ。そこには、人生における良いことも悪いことも、コントロールできないものはすべて神から来る、という素朴な世界観が見て取れる *¹。

ところが、バビロン捕囚という悲惨な出来事を経た旧約聖書の後半では、世界におけるマイナス要素が神から分離され始める。その処理のために利用されたのが天使的諸力だ。この見方が典型的に出てるのが、預言者ダニエルに告げられた「ペルシアの天使長とギリシアの天使長の闘争」という表現。そこでは、神による統御におさまらない邪悪な力が、堕落した天使というレッテルを貼られることで、新しい世界観の棚に安置される *²。

たぶん、得体の知れない何かにレッテルを貼ることで、みんな安心するんだと思う。フランクリンが「雷は電気です」と言って科学の棚に安置したときも、そんな感じだったんじゃないだろうか。

旧約聖書の後半の考え方。。。後期ユダヤ教とか第二神殿時代のユダヤ教とも言うけれど。。。それをそっくり引き継いだ新約聖書は、天使的諸力(ストイケイア、諸要素とも)の概念を発展させて「位・主権・支配・権威」というレッテルを貼り、それらがいまも世界を動かしている、というふうに見る *³。

でも、新約聖書の世界観の真に革命的な点は、レッテル貼りしたそれらのマイナス要素が一瞬・一発でぜんぶプラス要素に転換済みになった、と主張しているところにあると思う。

それがいったいどんなロジックなのかと言うと。。。

神のひとり子であるイエス・キリストは、世界のマイナス要素をすべて「一杯の杯」*⁴ に集めて飲み干し、死んで復活することによって、マイナスをプラスに転換した。その行為が十字架と復活だ、というロジックだ。

このロジックを人生にあてはめると、どういうことになるのか?

きょう自分が経験する限界は、自分の「十字架」だ、という受け取り方をすることになる。

その壁がどんな種類で、どういうふうに行く手を阻み、自分に終わりと死を突きつけようとも、マイナス要素であるかぎり、ぜーんぶ「十字架」になる。で、十字架だから、その先に復活が待っていることになる。だってイエスは死んで復活したんだから。

イエスの十字架と復活に全人類が組み入れられることによって、すべての限界は「十字架」になり、その十字架を自分が主体的に受け取ることによって、限界を超越して「復活」の栄光に到達することができるようになったのだ *⁵。

あなたがたはキリストにおいて…
キリストと共に葬られ…
キリストと共に復活させられたのです
*⁷

もちろん、その「復活」は、自分が生きているあいだに経験する精神的な復活や状況的な復活もあるだろうし、文字通り身体が死んでのち永遠の世界で経験する復活もあるだろう。。。とにかく、すべての十字架は復活に通じる、ということになる *⁶。

キリストはすべての支配や権威の頭です *⁸

神は、わたしたちの一切の罪を赦し
規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し
これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました
そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し
キリストの勝利の列に従えて
公然とさらしものになさいました
*⁹

熱心に取り組んだけど力足らずで断念せざるを得ないとき。。。

「これが自分の十字架か」と思う。

そう思い定めた地点から先に、復活のキリストが手を広げて待っている。

註)
*1.  Cf サムエル上 16:14, 19:9
*2.  Cf. ダニエル 10:13, 10:20
*3.  Cf. コロサイ 1:16, ペトロ一 3:22
*4.  Cf. マタイ 26:42
*5.  Cf. コロサイ 2:11-12 
*6.  Cf コロサイ 2:10,13-15
*7.  Cf コロサイ 2:12
*8.  Cf コロサイ 2:10
*9.  Cf コロサイ 2:13-15

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