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明けても、暮れても、自己と他者。。。
他者への配慮って、淵源は、どこにあるんだろうね?
それなくしては、さびしくてしょうもない、他者。。。でも、それがいると、心のなかに鉛のような気分をずしーんとおぼえる、なんとも扱いようのない他者。。。
今日の聖書の言葉。
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
フィリピの信徒への手紙 2:4-5 新共同訳
『利己的な遺伝子』を書いたドーキンスだったら、こう考えるんじゃないかな。。。
生存競争に生き残ることが、すべて、という「利己的」なプロトコールを持つ遺伝子は、競争に勝ち抜き続けるなかで、他者への配慮を行った方が、生き残り確率アップに寄与できる、ということを経験則で発見し、結果、人類社会における「他者への配慮」が確立された。。。みたいな?
これだと、自分を譲り、他者を立て、他者のために自分を犠牲にするような行為も、つきつめれば「利己的」なプロトコールが原因、ということになるよね。
クリスチャンたちは、「他者への配慮」を、より大きなスケールでもって構想しようとする。たとえば、ギリシャ正教会のアタナシオス・パパタナシウ博士は、こう言っている *。
東方教父たちは、あらゆる生命が、三位一体的な存在様式へと転換された、という世界理解を持っていました。これは、生命を、他者との相互関係性において捉える、という見方です。
これって、自己と他者、という関係性には、父なる神・子なる神・聖霊なる神という「三位一体」の関係性が反映されている、ということなんだ。
しかも、パパタナシウ博士によれば、この、自己と他者、って、人間同士の関係だけでなく、あらゆる生命。。。犬も、猫も、金魚も、すべての生命を包含するような。。。そういう関係性、と言うのだ。
人間と猫との関係に、父なる神・子なる神・聖霊なる神の永遠の関係性が反映されている、って、なんか、面白いかも。ここから類推すると、人間だけでなく、猫にも永遠の生命が要請されることになり、その証拠聖句としてローマ8:21「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」が指摘されることになるのかもしれないね。
博士は、こうも言う。
真の人間の在り方とは、他者性が、自己同一性と平行関係にあるのでもなく、対立関係にあるのでもなく、むしろ、他者性が自己同一性を構成する一要素であるような、人間の在り方なのです。
自己と他者って、どうしても、二項対立図式でとらえがち。でも、そうではなくって、「自己」のアイデンティティーを構成する要素に「他者」が、もう、入っちゃっている、という考え方を、博士は提示する。
これって、父なる神が「父なる神」であり得るわけは、神を構成する要素の中に、他者としての「子なる神」と「聖霊なる神」が入っているから。だから、神は神なんだ、という三位一体のアイデンティティー論が、まずあって、それをそっくり、人間の在り方に投射しているんだ。
博士は、こう結んでいる。
教会は、歴史が、終末論的な光によって照射されていると捉えています。それは、復活と世界の変容への希望を、あかしするものです。
歴史が終末に向かっている、とは、おじゃん、パーになる、という意味ではなく、歴史が、神の意図したとおりの「完成」に向かって、確実に歩を進めている、という意味だ。
父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位一体」の永遠の関係性。その関係性を反映する存在としての人間。。。その人間は、残念ながら、現実では、どこか壊れているので、どうしても、自己と他者、の二項対立図式に身を置いて、戦い、争い、滅ぼし合ってしまう。。。
しかし、子なる神であるイエス・キリストは、全人類の贖罪のために十字架にかかり・復活することによって・人類のなかに刻印されている「神のイメージ」(像と肖)を回復してくれた。
その回復された「神のイメージ」においては、自己への配慮が、自然に、他者への配慮となり、また、他者への配慮が、自然に、自己への配慮となるような、あたらしい世界が開かれて行く。
その、あたらしい世界に向かって、わたしたちは今日も一歩、進めばいいんだ。なぜなら、それは、イエスの復活によって、すでにスタートしているんだから。
註)
* Dr Athanasios N. Papthanasiou, Reconciliation: the major conflict in post-modernity - an Orthodox contribution to a missiological dialogue
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