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春の訪れ、そして、すべての呪いの終焉。。。

聖書を読んでて気が滅入る思いをすることがある。読む個所によるのだが、特に滅入るのが旧約聖書の申命記28:15-68に記載されている「呪いのリスト」だ。

そこには、呪い、呪い、呪い。。。実に様々な呪いが列挙されている。傑作なことに(傑作という言葉を使うのは不謹慎と思うが)あらゆる呪いを予告した上で「この律法の書に記されていない病気や災害をことごとくあなたに望ませ、あなたを滅びに至らせる」とまで言われている。つまりオープンエンドの呪いなのだ。全宇宙のすべての呪いで呪った挙句、定義されない新種の呪いも下すぞ、と言うわけ。だから新約聖書神学者の山谷省吾などは心に正直に感じたとおり「悪鬼的な律法だ」と表現した。

まあ、そう感じるのが普通の神経だよな、と思う。こんなにまで呪おうとするなんて、悪鬼じゃん。。。

やはりそういうふうに感じたひとりにマルキオンという古代のクリスチャンがいた。名説教家であった彼は、説教壇から語ると花びらが天井から舞うような劇的演出を仕掛けて人気を博した。今で言ったら照明を浴びて拍手喝采されるテレビ伝道者みたいなものか。影響力あるマルキオンは一般受けを追求する中で、旧約聖書の「呪う神」という概念に居心地の悪さを感じ、ついに聖書の修正作業に着手する。大胆に旧約聖書の大部分をぶった切り、それらはデミウルゴスという悪しき神によって書かれたと断定し、返す刀で新約聖書もバッサバッサとカットして、残ったのはルカによる福音書ぐらいだった。

マルキオンに戦慄したクリスチャンたちは、対抗するため結集し、広く諸教会が「聖なる書」と認めて礼拝で朗読している文書のリストを作成することによって聖書を防衛した。それが正典と呼ばれる旧新約聖書の枠組みとなって今に伝えられている。見方を変えれば、何が聖書かという定義はマルキオンへの反動から生まれたと観ることができるだろう。

マルキオンだったら絶対カットしていた申命記の「呪いのリスト」は、このような経緯で焚書から救い出されたわけだけど、じゃあ、これほど酷いもろもろの呪いを、どうやったら「神の愛」と調和させることができるのだろうか。。。

今日の聖書の言葉。

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。
ルカによる福音書 22:42 新共同訳

呪いと神の愛とを調和させるためのキーワードが「杯」なのだと思う。この杯は「怒りの杯」とか「苦い杯」とも呼ばれている。構造的にこの杯は、申命記に記載された全宇宙のあらゆる呪い+新規の呪いをすべて残らずひとつに集めて杯の内に固定する役割を担っている。そして、その杯は飲み干されるのだ。ほかならぬ神自身によって。。。

そう考えるなら、申命記28:15-68の役割は、全宇宙のすみずみまで広がってあらゆる呪いをかき集め杯のうちに流し込む超巨大な漏斗(じょうご)のようなもの、と言うこともできるだろう。

聖書の現実主義。。。それは、世界に呪いなんて無い、と言おうとすることではない。逆だ。むしろ、世界には呪いがある、ということを認める。しかも、ありとあらゆる呪いを漏らさずアップし、見逃されているかもしれない呪いすらリストの終わりに紐づけようとする。そうすることによって、人類が経験するすべての悲惨な出来事が聖書の中に包摂されるのだ。こうして聖書は誰にとっても「自分の人生の一部」が書き込まれている本になるんだと思う。

そこまでの前提を旧約聖書で作った上で、神は、肉体を持つ神であるイエス・キリストとして地上に降り立ち、杯を手に取る。そして、飲み干す。その結果が十字架だ。十字架につけられた神は、死んで墓に葬られ、陰府に降下する。。。

いったい呪いの執行者というのは神であり、ただ神だけだ。その神が、すべての呪いをあまさず飲み干して死んだ。呪いがもたらす実効力とは「死」なのだから、ある意味、死んでしまえば呪いは終わり、と言うことが出来る。呪いを飲み干した神は、死んで、そして、三日目によみがえる。それは二度目に呪う神としでではなく、赦しの神として復活したのだ。そのイエス・キリストは、ヨハネによる福音書 8:15 でこう宣言している。

わたしは誰をも裁かない

イエス・キリストの死によって全宇宙+アルファの呪いがすべて終焉したという世界観は、パウロが書いたコロサイの信徒への手紙 2:14-15に顕著に表れている。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し
規則によってわたしたちを訴えて
不利に陥れていた証書を破棄し
これを十字架に釘付けにして
取り除いてくださいました
そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し
キリストの勝利の列に従えて
公然とさらしものになさいました。

「呪いのリスト」とは、人間の罪に対して呪いをもたらす規則であるわけだが、それは罪人であるわれわれにとって、まさに「不利に陥れる証書」だ。しかし、神は神自らすべての呪いを飲み干して死ぬことによって、呪いを終焉させた。申命記28:15-68はキリストの十字架に釘付けにされて、宇宙から永遠に取り除かれたということになる。

その結果、どうなったのか? 呪いの執行者である神から、呪いの代理執行者として選任されていた天使的諸力(位、主権、支配、権威、サタン)は、全員が職も地位も失い、武装を解除され(訳によっては「丸裸にされ」)、復活のキリストの勝利の凱旋にさらしものとして加えられることとなった。

こうして、イースター(キリストの復活)の後の世界は、すべての呪いがひとつのこらず過ぎ去った世界ということになる。長く暗く寒い冬は終わり、春の空は澄みやかに晴れ渡っている。

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