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ゆるされて、生きている。ゆるして、生きて行く。

自分の父は、わりあい気が短いほうだったと思う。よく怒られていた。ゲンコツを食らうこともあった。

父は、無神論者だった。パルタイのメンバーではなかったし、家にマルエン全集をそろえるほどの熱心家でもなかったけれど、シンパではあった。

そんな父が、なぜか中学生の息子がキリスト教を求道し始めたとき、ずーっと、なまあたたかく見守っていてくれた。

父は、思想の自由ということについては、どこまでも個人の意志を尊重してくれた。なので、息子がクリスチャンになることについて、何も口出ししなかった。

自分は自分のことを、性格としては温厚で、気が長いほうだと思っていたけれど、年齢を重ねるにつれ、やっぱり父のように沸点が低くなってきている。。。前頭葉が弱ると、ブレーキが利かなくなると聞いてるけど。。。もっとも、だれかにゲンコツを食らわせるようなことは、したことがない。自分の場合、腹が立つと、不機嫌になって黙り込む。

そんなとき、ふと、父のことを、不思議だったなあ、と感じる。

おのれは無神論者なのに、息子がクリスチャンになることを、腹も立てず、黙って許すって、なかなかできることじゃないよな、と。

ふだんの沸点の低い父を知っているから、余計に不思議だ。

もし、自分が同じ立場に立たされたら、どうだろう。きっと不機嫌になるんじゃないかな、と思う。

今日の聖書の言葉。

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
エフェソの信徒への手紙 4:32 新共同訳

愛されて、ゆるされて、生かされている。。。

許容されて、黙って受け入れられて、いろんなことを見逃してもらっている。。。

セカンドチャンスを与えてもらって、セカンドどころか、サード、フォース、フィフス、シックスス、セブンス、エイス。。。

何度も何度も失敗するのを、大目に見てもらって。。。

そうして、いまの自分があるんだなあ、と思う。

だから、自分も他人に対して、同じように接し、同じようにふるまわなければいけないはずなのに。。。

なのに、ほんと、いとも簡単に、すべて忘れてしまうんだよね。自分は、ゆるされて生きている、ということを。

それを、忘れないようにするためには、どうしたらいいんだろう。

やっぱり、日々、反省するしか、ないよね。そして、主の祈りを唱えるとき、本気で、それこそ「全集中の呼吸」で、下記の太字の部分を、祈るしかないんだと思う。来る日も、来る日も。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。


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