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紅茶論

本稿は、ほんとなら東京近郊の教会の女性のつどいで、中国茶を立てつつ、お話しするはずだった。

けれども、このコロナ禍で中止となってしまって、日の目をみなかった。コロナ禍がたとえ終息しても、喫茶を伴うような会合は、もう当分は行われないだろうから、noteで公開することにした。

喫茶の起源

お茶は、中国の雲南省、チベット、ミャンマーに自生するツバキ科の植物で、有史以前からお茶は飲まれていたようです。3世紀ごろのお茶の飲み方は、お茶の葉を餅のように丸めて(餅茶と言います)、飲むときは火であぶって棒で突き、お湯をかけ、みかんの皮、ねぎ、生姜などを混ぜて、スープのように煮て、飲んでいました。

団茶~抹茶

7世紀になると、お茶を飲む習慣が中国で広がり、全国でお茶の木が栽培されるようになりました。陸羽が書いたお茶の本『茶経』には、固い餅茶を削って、粉にして、塩を入れて煮て飲んだ、とあります。10世紀になると、固くかためたお茶(団茶)を削って、粉にして、茶せんでお湯と混ぜて飲むスタイルになりました。このスタイルが日本に伝えられて、日本の茶道の抹茶となりました。

中国茶の確立

14世紀になると、貧しい農家の出身の朱元璋が皇帝となり、抹茶を禁止しました。抹茶はお金持ちの飲み方であり、お茶本来のおいしさを損なうから、というのが理由でした。こうして中国では抹茶はすたれて、茶葉にお湯をかけて飲む中国茶の飲み方が確立されました。

17世紀の清の時代になると、茶葉を釜で炒って、もんで、乾燥させる緑茶のほかに、生の茶葉をもまないで乾燥させただけの白茶や、緑茶を弱発酵させた黄茶、半発酵させた青茶(ウーロン茶)、完全発酵させた紅茶、この完全発酵というのは酸化発酵ですが、完全発酵したお茶にさらにカビなどをつけて微生物で発酵させた黒茶(プーアル茶)、緑茶の中にドライフラワーを入れた花茶など、いろいろなお茶が作られるようになりました。

海を渡るお茶

18世紀になると、イギリスの商人が中国からお茶を買い付けて、ヨーロッパで高額で販売しました。ヨーロッパの水はミネラル分が多い「硬水」であるため、緑茶よりも硬水に合う紅茶が主流となりました。

18世紀の伝道者ジョン・ウェスレーは初めは紅茶を飲んでいましたが、あまりに値段が高いので、『紅茶論』というパンフレットを書いて、自分はもうお茶は飲まないと宣言し、お茶論争を引き起こしました。しかし、紅茶の値段が下がってくると、ウェスレーは再びお茶を飲むようになり、晩年の日記を見ると一日に3回から6回飲んでいたことがわかります。

お茶と信仰

ウェスレーはメソジストというグループを作り、イギリス中に広がりました。18世紀のメソジストは、イギリス国教会の中のグループでしたので、日曜は国教会で聖餐式につらなり、それ以外の時は聖餐式に代えて愛餐会(Love Feast)を持ちました。聖餐式ではブドウ酒とパンが用いられますが、愛餐会ではお茶とクッキーが用いられました。19世紀になるとメソジストは国教会から離脱し、そのメソジストから生まれたのが救世軍(The Salvation Army)で、救世軍の愛餐会の起源はここにあります。

世界史を動かす茶

イギリスでは紅茶が大流行し、ティークリッパーとよばれる高速帆船で運ばれましたが、すべてが中国からの輸入であったため、イギリスは対中国で貿易赤字に陥ってしまいました。そこでイギリスは、インドで作らせたアヘンをお茶の代金として中国に売って、赤字を解消しました。中国ではアヘン中毒が蔓延し、アヘンの輸入を禁止したことからアヘン戦争が起こり、中国はイギリスに破れて、香港を租借地として割譲させられることになりました。アヘン戦争で中国が破れたことに衝撃を受けた日本では、倒幕運動が起こり、明治維新、近代化、富国強兵へ向かいましたので、まさにお茶が世界史を動かしたと言えるかもしれません。

盗まれた茶の木

イギリスは、植物学者ロバート・フォーチュンにお茶の木を中国から盗み出させて、インドやスリランカに移し植えて栽培することに成功しました。こうして、ダージリン(濃厚、ミルクティー用)、アッサム(マスカットフレーバー、ストレート)、ニルギリ(セイロン紅茶に近い)、ドアーズ、シッキムなどのインド紅茶や、ウバ(濃い、ミルクティー)、キャンディ(渋みが少ない、アイスティー)、ディンブラ、ヌワラエリヤ、オレンジペコーなどのセイロン紅茶が作られるようになりました。

さまざまな紅茶

紅茶には、産地のお茶をそのまま飲むオリジンティーと、いろいろな産地のお茶をブレンドしたブレンドティーがあります。ブレンドティーで有名なのは、朝に飲むブレックファスト(渋みのある濃いお茶で、ミルクティーにします)、アフタヌーン(午後に飲むお茶で、渋みが少ない)、クィーンアン(インドのアッサムティーのブレンド)、プリンスオブウェールズ(中国安徽省でつくられるキーマン紅茶のブレンド)などがあります。

また、紅茶に香りをつけたフレーバーティーがあり、19世紀の首相グレイ伯爵にちなむアールグレイ(キーマン紅茶にベルガモの香りをつけたもの)、レディグレイ(アールグレイをベースに柑橘類の皮とヤグルマギクの花びらを加えたもの)、福建省の武夷山のお茶を煙でいぶしたラプサンスーチョンという、正露丸のような香りがする紅茶があります。

アフタヌーンティ

アフタヌーンティの習慣は1840年頃にベッドフォード公爵夫人によって始められたとされます。当時の貴族は、毎晩観劇、オペラ、社交にでかけていたので、でかける前の腹ごしらえとしてアフタヌーンティを楽しみ、おでかけが終わって9時頃帰宅するとそれから夕食をとっていました。このため、アフタヌーンティはお茶と食事の中間のようなボリュームとなりました。そこで供されるのは、きゅうりのサンドイッチ、スコーン、ケーキ、砂糖菓子、フルーツなどです。なんで、きゅうりのサンドイッチ?と思いますが、冷蔵や流通の技術が未発達の昔は、きゅうりのように傷みやすい野菜を手にできたのは、家庭菜園を持ち、園芸職人を抱えたお金持ちの家だけ、つまり、きゅうりは贅沢の象徴だったのです。三段重ねのケーキスタンドで供されるアフタヌーンティは、下から上へ、サンドイッチ、スコーン、ケーキの順番に食べるのがマナー。おでかけが無い日のアフタヌーンティには魚料理や肉料理が出されて、正式な食事に準じるものとすることもありました。これはハイティーと呼ばれます。

クリームティ

クロテッドクリームはイギリスの南西部デヴォン州で2000年以上も前から作られてきた伝統的クリーム。ジャムとともにスコーンに付け食べられるのが一般的です。脂肪分の高い牛乳を、弱火で煮詰めたものをひと晩おいて表面に固まる脂肪分を集めて作られます。脂肪分は60%程度であり、バター(80%)よりは低く、生クリーム(30〜48%)よりは高いです。スコーンとクロテッドクリームを紅茶と共に楽しむのをクリームティと言います。これにサンドイッチがつくとアフタヌーンティになります。

ティーバッグ

ティーバッグは1908年にコーヒー貿易商であるトーマス・サリヴァンによって偶然に発明されたとされています。商品サンプルの紅茶の葉を絹の袋に詰めて小売業者に送ったところ、そういう商品だと勘違いされて、その袋のままお湯につけて紅茶を煮出してしまったというのです。それがティーバッグの始まりだとされています。イギリスではティーバッグのシェアは1963年には3パーセントに過ぎませんでしたが、現在は90パーセント以上はティーバッグとなっています。

おわりに

ということで、人類にお茶の木を与えてくださった創造主に感謝し、献茶した上で、飲み干しましょう。ええ、カップは、もちろん、ロイヤルアルバートのオールドカントリーローズでねー。

わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。
‭‭コヘレトの言葉‬ ‭3:12-13‬ ‭新共同訳‬‬

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